*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「きょうが最初の日」
2019.11.02
「灯台へ」を先日読んで、それではじめて作者の小説に触れた。
わたしは、子どものころ、それから十代のころはそれほど夢中になって本を読んでいたわけではなかった。
本を読むことはすきだったが、まいにちのように読んでいたわけではなかったから。
なので、いまになってから知るあたらしい感覚がたくさんある。そういう感覚に出会うとほんとうにハッとしてしまう。驚いてしまう。
そのたびにだから、ああもっとはやく読んでいたら心強くおもえた日もあったろうな、とかそんなことを「もっとはやく」なんてないと知りながらもおもってしまうのだけど、でも少しずつ大人になってからこうして読んだり書いたりするよろこびを知れたように、いまだからこそ読めた(物語を理解したというのでなく手に取った、という意味で)のだろうなともおもう。
というのは、さいきんなつかしい本を読み返すのがひそかなたのしみになっているのだけど、あれ、こんな話だったっけ、とか、こんな一文、場面文体だったかなあとかそれが何度目であっても、いちいち、ほんとうにいちいち驚いてしまうから。
それで「ダロウェイ夫人」を読みながらもおもっていたのだった。
ああわたしは、この本のことを、数日かけて読んだ感覚をきっと思い出すだろうな、と。
もう読むまえには戻れないな、と。
小学生のころ、はじめて分厚い本をわくわくしながら読んだときのように、意味がわからないことばやむずかしい場面はあっても、読み進めるのをどうにもやめられなかったときのように、これからひらくたび思い出すだろう、そんなふうにおもったのだった。
文体のリズムが心地良くて、それから心のなかをいったりきたりするのも新鮮で――それも主人公「わたし」だけの視点にもぐるのではなく、クラリッサからみる目、クラリッサからみる過去、を共有しあったひとの思い出が始まって、その思い出を「いま」の時点からみてっていうのが、たったいちにちの出来事のなかに満たされていて、描かれる景色の光の差し具合なども相まって、読んでいると感情の波がぶわっとかたまりになって押し寄せてくる感覚があって。
「お花はわたしが買ってくるわ」とミセス・ダロウェイが言った日。
清々しい気もちが胸いっぱいにひろがっていた日。
を、ぐうっとのぞきこめば昨日や一昨日となんらかわらないようにみえる日も、ミセス・ダロウェイのなかにも、その他登場人物のなかにもそれからお話にも出てこない通行人たちのなかにもみんなに意識があるのだよなあ。
そうおもったらたまらないよなあ。
気もちたかぶってまた一気に読んでしまったから、これからも大切にしないとなあとおもう。
いろんなふうにおもったこと、泣きたくなったこと愛おしい気もちくるしい気もちもぜんぶ、まとめて。