*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章を転載していきます。
「自分と他者との狭間を行き来する「僕」。リアルすぎる心情に打ちのめされた」
2017.05.01
「あ。この本も大好きな柴田元幸さんが翻訳されている! よーし読んでみるか」
もしもいま、そんな軽い気持ちで手に取った自分に声をかけられるなら、ちょっとお嬢さん、その本まじでやばいですよ! と声を大にして言いたい。まじでやばいなんて何を適当な! と思われようがなんと言われようがまじでやばいのだから仕方がないだってまじでやばいのだから(切実)。
「僕」のもとにある日届いた一通の手紙。差出人は赤ん坊のころから一緒に育った親友「ファンショー」の妻からで、なんでも夫が突然いなくなったのだという。またファンショーはいなくなる以前彼女にある頼みごとをしていて、それは、自分が消えたあと書き溜めておいた小説を親友である僕に見せ、面白ければその後のことは任せる、そうでなければすぐにでも破棄してほしいという無茶極まりないものだった。失踪の事実だけでも衝撃なのに、突然課せられた頼みに戸惑う「僕」は、対面した彼女のあまりの美しさにも冷静さを失う。
そんな出来事から始まる物語は、いったん過去へと移る。家は隣どうし、お互いの親も仲良し。ほとんど兄弟同然だったふたりは文字通り何をするにも一緒だった。
一方どれほど同じ時を過ごそうとも近付けないのがファンショーという人間で、それは彼が意地悪であるとかそういった類のことでは決してなく、むしろ彼はいつだって完璧で皆が望むとおりのことをやってのけるのだった。
憧れだったファンショー。手を伸ばしてもつかめなかったファンショー。しかしどこかで孤独を感じているように見えたのもファンショーで、ふたりで遊んでいるときに突然箱の中に入り、その中にいる間は決して声をかけないでほしいなどと頼んでくることもあるのだった。もしも声をかけてしまったら最後、その世界は存在を失ってしまうのだ、と。
そのような傾向には(自分の中に入り込みこちらがどれだけドアをノックしようとも出てくることはない)ファンショーの家庭環境が一因になっていたかもしれない。若くに病魔に侵された父親と徐々に崩れていく母親。頼れる存在を失ったまだ幼い妹。ギリギリの状態だった家族を支える役目はファンショーひとりの身にふりかかり、意識せずともヒーローだった彼は色を失っていく。
もちろんそれはきっかけのひとつに過ぎないかもしれないし、むしろ全く関係のないことかもしれない。とにかく事実としてあるのはファンショーがいなくなったということで、彼を愛していた反面どこかで嫉妬のようなものを感じていた「僕」は、きっと素晴らしいに違いない作品を読むことに躊躇する。結局のところ「僕」は作品を開き、予想通りそれらは素晴らしく、多くの人に読まれるまでになる。もちろんファンショーが書いた物として。
と、あらすじだけをたどっていくと、物語はなんだか幸せに終わってしまいそうなところなのだけど、ここまではほんの前触れに過ぎず、むしろここから始まっていく「僕」の崩壊が、本書「鍵のかかった部屋」の主題ということになるのだろう。
ファンショーに撮り憑かれた僕。ファンショーは何者かわからない僕ファンショーを追っているようで追いかけられている僕。たくさんの僕を通して物語を読みながら自分自身も「自分」と「他者」の違いなんて全くと言っていいほど分からなかった。僕もわたしもファンショーも母親も子供も親友も姉も……そもそも線引きなんてできないのではないかと怖くなった。「わたしはわたし」などと言ったところで果たして「わたし」ってなんなのだろうと。
むろん人は一人では生きていけないのであって(もはやそれすら分からなくもなるけれど)、間違いなく自分と他者は違う肉体をもった人間なのであって。けれどどんな疑問をもったとしてもそれらは自分の中にしかなくて、そう考えているうちに他者はどんどん薄くなっていって。あああああああああああああなんやこれえええええええと崩壊し打ちのめされた読者がここにひとり、自我が崩壊したところで終わりたいと思います。