yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

みいちゃんはいつまでも5歳のままだけれど--「はじめてのおつかい」

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

「みいちゃんはいつまでも5歳のままだけれど」

2017.10.06

 


絵本の中の世界はいつまでたってもそのままで、もちろん登場人物は歳をとらないし風景だって変わらない。だからこそ大人になって変わってしまった自分がもう一度表紙をひらいたときあまりのそのままっぷりにクラクラして直視できなくなって、ああわたしは確かにここにいたここで身動きができなかったんや。と、当時感じていた窮屈さ優しさ匂いぜんぶが一気に押しよせてきて吐きそうになる。

ところで本の読み方はいろいろあるけれども、わたしにとって「はじめてのおつかい」は自分に当てはめてドキドキするでもなく可愛らしいなあなんて微笑ましく思うでもなく、ただただ丸ごと一冊「お姉ちゃん」だった。

 

わたしはお姉ちゃんが好きで、それはもう何がいいとか悪いとか様々乗り越えてきてとかそんなんではなく、「お姉ちゃん」だからである。
お姉ちゃんはもう何をしたってどこを向いていたってお姉ちゃんでわたしはそれでいいしそれがいい。日本語は他言語に比べてまどろっこしい表現が多いというけれどそれでもどんな言葉でも片付かないお姉ちゃんに対する気持ちいったいこれはなんやろう、けれどもどんなに言葉を埋め合わせるよりもお姉ちゃんはお姉ちゃんでだからわたしはお姉ちゃんがすき。

表紙一面屈託なく笑う「はじめてのおつかい」のみいちゃんはお姉ちゃんにそっくりで、読んでいるといつも苦しかった。頑張れなんて応援どころかおつかいなんてやめて泣かないでほしかった。とか言いながらお姉ちゃんは横でセーラームーンごっこをしながらゲラゲラ笑っていて、よくそんな笑ってられるよなあお姉ちゃん牛乳買いに行って頑張って牛乳くださああい! って言うてんのにだーれもきいてくれへん、しかもお姉ちゃん転んで痛そうやしかわいそうやしでもお姉ちゃん横でめっちゃ笑ってるしなんなら膝も転んで怪我してないしツルツルやしあれ。みたいな絵本と現実の融合になって忙しかった。ああお姉ちゃん。

とか思っちゃうほどね。ハラハラがすごいんですよこの絵本。みいちゃんの「はじめて」っぷりがこれでもかというほど表現されていて。それは絵のタッチもそうやし道々の試練もそうやし表情もお母さんの丸ごと包みこむ感も。
わたしはおもった困惑した頑張るってのはなんちゅう。こんなにもお姉ちゃんは頑張っていてほっぺたを真っ赤にして怪我までしながらはじめてのおつかいとやらに向き合っているのになんちゅう!!(もちろん実際のお姉ちゃんは無傷満面の笑み)。

頑張るってのは辛いこととセットで? 苦しんだから褒められて?
とまあここまで具体的におもっていたのかは分からないけれどもそのような困惑と悲しさと頑張れお姉ちゃん! ってな気持ちで涙腺は崩壊、よく泣きながら読んでいてくるしかった。そしていまもこの絵本のことをおもうとそんなあれこれが駆けめぐってきてほのぼのなんて気持ちにはなれなくて。

けれども最後、最後のページをとじたときみいちゃんは得意げに牛乳を飲んでいて、ひざ小僧にはガーゼが貼ってあるんやけれどもとてもうれしそうやった。お母さんの手には生まれたばかりの赤ん坊が抱かれていて、ふたりのそばでやり遂げたった感全開のみいちゃんは悲しくなさそうだった。

あんなにも大変なことに遭遇して「はじめて」の恐怖を味わって、けれどもみいちゃんは「やりたかった」んやなあ。やりたかったうえでのハプニングなんやなあ。お姉ちゃんはいつだってわたしより先にはじめてを経験して向きあって、もちろんもうおつかいはできるし道でころんだりもしないやろうけれどもそれでも、いまでも数えきれないはじめてと戦っている。
はじめては怖いし未知すぎるしモンスターやしお姉ちゃんには傷ついてほしくないけれど、でも、お姉ちゃんが踏ん張って戦っているところはいつもかっこよくて大好きやから過程とやらをすっ飛ばすことはできないのやなあ、ぜんぶ含めての最後のページなんやなあ。

あんなに読むのが苦しかった「はじめてのおつかい」、でも心には強烈にインプットされていて、それはなんども繰り返し読んだからなのやろうみいちゃんがまぶしかったのやろう。
みいちゃんはいつまでも5歳のままだけれど、わたしはいまも本をめくるたびお姉ちゃんのはじめてをおもって心臓がしわくちゃになるのだった。