yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

スティーヴン・ミルハウザー「ナイフ投げ師」

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章を転載していきます。

 

「何も分からないということ」

2018.05.18

 


昔から短編よりも長編が好きだった。長編はまどろっこしくまたなかなかゴールに近付けないため一度間をあけてしまうとすんなり戻ることが難しくなる一面があるが、けれどその分それこそ時間なんてあけていられないほど前のめりになる物語に出合った時の至福加減ったら半端ではなく、気がつけば短編を避けがちになることが多かった。

 

もちろん、短編には短編の良さがあり嫌いというわけではない。短編ならではの選び抜かれ研ぎ澄まされた一語一語を堪能するのは楽しく贅沢な瞬間だ。

しかしそういう気持ちは持ちながらもやっぱり、これまで私はたとえ好きな作家や読みたいと思っていた作家の作品であっても短編と知って躊躇してしまうことが多々あった。


理由は上手く説明できないけれども考えてみると、一つの話を読み終えた後にすぐ頭を切り替えられない、むしろ切り替えずにしばらく浸っていたいという気持ちがあり、一冊の中にいくつもお話が入っているよりは長編の方にどっぷり浸かりたい気持ちの方が強くあったのだと思う。またポーンと放り出されたようで物足りなく感じた経験が何度かあったことも一つの要因になっているのかもしれない。

 

と、ここまで長々と書いてでは今回読んだ「ナイフ投げ師」がどうだったのか、同じくポーンと放り出された気がしたのかというと。

 

全くそんなことはなかったのである。短編に対し私が今まで抱いてきた置いていかないで感がない、これは自分にとってはとても驚きで、収められている物語はひとつひとつ全く違ったストーリーなのになぜか同じような心地を味わいながら、もっともっととページをめくる手が止まらなかった。

 

そうして次々と、けれどじっくり短編の世界に浸りながら感じた幸せは「何も分からない」ということだった。ある日街にやって来たどこか官能的でもあるナイフ投げ師、少女たちの実態のない会合、高みにのぼりつめていくデパートそれから人形達、そのどれもに確かなことは一つも無いけれど、気付けば物語の中の人々のように、分からないながらも取り憑かれている自分がいて。

 

分からない、分からないけれども惹かれる月の夜だったり絨毯での旅だったりは一瞬一瞬がその瞬間でしかなく、似ているようで同じ景色は一つもなく、そしてまた、やっぱり何も分からない。


突き詰めていく高みに登るという一見称賛にしか値しないようなことももうその域さえ飛び越えてしまうと再び何も分からなくなって、私は以前読んだ「マーティン・ドレスラーの夢」にもう一度会えたような気持ちになって嬉しかった。

 

どこにも属さないもの、は確かにあるしその属さないもの空気世界色が私は好き。皆がナイフ投げ師に感じた恐怖をけれど同時にどこかで望む気持ちは何だったのか、少女たちは実のところ何をしていたのか、どの時期の人形が正解だったのかカスパー・ハウザーは皆の世界へ降りた方が良かったのか……については何一つ分からないが、分からない、という感情が心地いいことそれから面白いものは短編も長編も面白いのだということだけはとてもよく分かった。何度目か分からないが本当に読めて良かった。