yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

アリス・マンロー「ジュリエット」

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

「実際には。」

2019.02.23

 


寝る前に少しずつ「ジュリエット」を読んでいた。

どの作品も短編とは思えないぐらい濃密で、格闘しているとザワザワしてきてかえって目が冴えてしまうのだった。

タイトルにもなっている「ジュリエット三部作」も好きだったが(最後の母の孤独を抱えながら立っている力強さたるや!)、私は中でも「トリック」という短編が好きだった。

振り返ってみればほんの一瞬の出来事が、人生の舵を大きく変える。でも、そうでなかったほうの人生は、起こらなかった以上見ることはできないから、事実に向き合った “今” になって、ようやっと立ちすくむだけ。
過去は学生時代の思い出が一人ひとり違っているのと同じように、頼りなくて、残酷だけど、だからこそ魅了されてしまうものでもある。
設定というよりは、主人公ロビンの置いてきた時間があまりにもとおく離れていることにぼうっとなってしまった。

私は作者の小説を読んでいると「実際には」という言葉が何度も浮かぶ。

人は、社会のなかで生きている以上おもて向きの顔をもっている。それが着ぐるみを被った状態であるとして、家へ帰り、着ぐるみを脱ぎ去ると私を形成している本来の輪郭があらわれる。ほっと一息をつく。だがその時点でもまだ、「実際には」自分自身でさえ起こった出来事には追いついていない。
あれは何だったのか。

真っ裸になって自分のなかへ潜って行っても辿り着けない何か。愛。憎しみ。疲れ。自己欺瞞。でも、そんなのは言葉にむりやり置き換えているに過ぎない。たとえば愛のなかにも憎しみはあるのだし、憎しみのなかにも疲れはあり、

ならば「実際には」、あの一日は、一瞬は、どう捉えればよかったのか。ぜんぶが嘘っぱちに思えて、ほとほと嫌気がさすようなとき、作者の小説を読んでいるとやっぱりザワザワして、分からなくなってくるけれども妙にすとんと、分からないことは分からないまま腑に落ちるようなところがあるのだった。なぜ、という問いがあるからこそ創作とはいえ物語のなかでは、嘘がないと信じられる。ページをめくる手が止まらなくなる。一度追うだけではまるで読んだことにならないような言葉の集まり。