yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

ヘルマン・ヘッセ「郷愁」

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

「深く読んでいきたい、です」

2019.12.24

 

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なんだか毎度言っている気もするのだけれども今年も終わりかけにまた大切だとおもえる本に出合ってしまった。
はじめて読んだのは「デミアン」で、先日は「車輪の下」で今回は「郷愁」。
わたしは順番を気にせず「デミアン」をいちばんはじめに手に取ってしまったのだけど、「郷愁」は作者の処女作ということで先日読んだ、「車輪の下」と同様とてもむちゅうで読んでしまってそれで今はまず、初期の作品をふかく読んでみたいなあ、なんて気持ちがある。

 

知らないことが多く「郷愁」の読み方も、意味も知らず知るところからの始まりだったけど、うつくしさ、きびしさ、つよさ、よわさ、やさしさ、などあらゆるものがふかく詰まっていてふだんは、買った本のページを折ったりなにかを書き込むことはもったいない気持ちがあるのだけれどもなんども折ってしまったページの角っこがあった、

特に、2ページにわたっての雲の描写はなんども声に出して読んでしまっていた。雲をおもっての文でありながらそれだけでまるでひとつの作品のようでもあって。

 

とはいえ、それは単に空を眺めてああ、うつくしいなあ、とため息をつくだけのうつくしさではなかったから(もちろんふつうに見上げたって雲はうつくしい、じぶんも気付いたら写真、むかしから撮ってしまう癖がある)、彼、つまり主人公ペーターからみる雲はあるいは山は、湖は、木は、ペーターが育った故郷の自然のきびしさを知っていたからこそのうつくしさであったからわたしは目が離せなかったのかもしれない。

住民の4分の3はカーメンチント、という名をもっているぐらい、故郷の村は都会からは離れ、剥き出しの自然と共にあり、彼はそのなかで日々歩き、山に登り、見て、いろいろなことを無意識のうちに心に留めていった。
その後、彼は都会に出て、出てからは車輪の下と通ずるところでもあったが人と出会い、濃密な友情を育み、詩を書き、また恋もする。
読みながらわたしは、それが具体的に何を指しているのかはわからなかったけど(あ、なんか知りたかったことが書かれてあるかもしれんなあ)と、そんなことをおもいながら読んでいて自分自身の様々な過去も思わず気付けば振り返ってしまっていてそのなかのひとつにシスターとの思い出、住んでいた施設はカトリックだったのだけど、そのシスター当時の園長せんせいには子どものころとてもやさしくしてもらった記憶があり、いっぽうで十代後半は何年もだれとも話したくなかったのでそのシスターとも言い合いになったのだけど、無性に腹が立って泣けてきたわたしにシスターはちょっと待っとき、といってものすごい早さで階段をかけあがっていってわたしが小学生のころ描いたそしてそのたびにシスターに強制的にプレゼントしていた絵をなんまいも持ってきたのだった、そしてこれ、見てみ、といって顔の前に差し出されて、それ以上はなにもいわれなかったけれどもいまおもえばあのときシスターはわたしに内側のことを、心の、奥のことをわからんけど伝えようとしてくれてたのかなあ。

なんて、また話が脱線してしまったけれど、この小説に対してなぜわたしは知りたかったことが書かれてるかもしれん、読みたかった本や、と、おもったのかを考えてみてもやっぱり具体的にはわからないけれどもでも、だからこそくりかえし読んでみたい気持ちがあるし、文章から聞こえてくるきびしさあってのうつくしさと内面の葛藤をもっと知ってみたい気持ちがすごくある、来年は、といっても「来年」という何かがやってくるわけではないが作者の小説を深く、しつこく読んでいきたいなあ。