*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「月に一度のチョコレート工場」
2017.05.19
ふと思った。最後に読んでもらった本ってなんやろう。
大人になってひとりで本を読むことが当たり前になって読書イコール孤独なものなんて固まったイメージがあったけど、いやそれって今はそうでも昔は違う、寝落ちしそうになりながらも必死に耳をすましていたあのころはぜんぜん寂しくなかったんだった。
思い返せば読んでもらった回数なんてそれほど多くないにもかかわらず妙に覚えているもんで、大人になってからの読書より強烈に残っているからおもしろい。誰かの声が入るっていうのは思っているより脳を刺激してその人との関係性やらなんやらくっついてくるもんやから、単に物語を読むのとはぜんぜん違うのかもしれない。景色も読み手との関係性もひっくるめて大きな体験になるのかもしれない。
育った施設に本の好きな先生がいて、背の小ささったら子どもだったみんなに子どもみたいって言われちゃうくらい小さかった。(反して小さい先生が読んでくれる物語は驚くほど壮大だった)
先生はわたしの担当ではなかった。それは毎日一緒に寝られないことを意味していて、月に一度の「チョコレート工場の秘密」は全然進まなかった。同じ部屋の子どもたちにとってはだから、月一のちょっとしたイベントになっていた。
小さな先生の声は今も脳で再生できるくらい印象的で、簡単にたとえてしまうとアニメに出てくる声優のよう。その声から繰り出されるチョコレート工場の魅力は破壊的で、主人公チャーリーの生い立ちもあって妄想は膨らむ一方だった。(あたたかい、けれど貧乏な家庭で育ったチャーリーは、見事にチョコレートの中からゴールドチケットを手に入れるのだ!)
子どもといってももう小学校高学年になっていた私たちはもちろん架空の世界だと分かっていたし気付いていたし知っていた。けれどそれでも良かった、月に一度の数十分、いや時にもっと短い一瞬の思い出が、今でも鮮明に思い出せる旅へ連れていってくれたのだから。
遠足の前の日、ひとり300円を持って駄菓子屋へ出かけた。チャーリーと友達だったあのころほかの駄菓子にくらべ値のはるチョコレートを持ち、嬉々としてレジへ向かった子どもは私だけではない。
チケットなんて入っていないチョコレートを破りわざわざ「入ってへんかったわあ」と落ち込む。そのくせ満更でもない表情を繰り返す姿は何してんねん以外のなにものでもないのだが、そんなあほみたいなことがどうしようもなく楽しかったし、小さい先生がくれた大きな想像を懐かしむ時間は悪くないのだった。
チャーリーとの出会いをくれた小さな先生、本当にありがとうございました。