yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

Ishiguro Kazuo「充たされざる者」

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章を転載していきます。

 

 

「いつまでも出られない迷路のような」

2017.09.18

 


近ごろよく見る夢があって、わたしはずっと理由もわからず怒っているのだけれど声が出ない。どうにかして相手を言い負かしてやろうと必死になっていて、喉元まで声は出かかっているにもかかわらず、いざ言葉にしようとするとヒューヒューという喘息のような音がかすかに漏れるだけなのだった。

相手の顔は見覚えがあるような気もするしないような気もする。また怒っている理由も心当たりがあるようでないようで。と、そんなようなどうにも消化不良な夢を見続けているものだから、目覚めたときの気分は最悪で、けれど不思議と強烈に心に残るものだから、その場面がふとした瞬間に現れては消え、どこからが夢でそうでないのか分からないようなぬるっとした空間から出られないのだった。

充たされざる者」はわたしにとってまさにそんな物語で、ひとことでいうと本当に不思議。上下巻にわたるとにかく長い物語を読んでいるあいだずっと目覚めない夢を見ているような息継ぎのできない水中にいるような気になっていて、ああくるしい、なんやねんこれ、もういいかげん息させてくれと叫ぶのだけれども展開は一向にさっぱりとせず、むしろどんどん深い迷路へとはまってゆく。

高名なピアニストである主人公ライダーはある小さな街に招かれる。出迎えてくれる人々はみな口々に「ライダーさま」と褒めたたえ崇めるのだけれども、ひとりひとり様々充たされない悩みをもっており次々に頼みごとをふっかけてくる。

登場人物はこれでもかというほどご丁寧に身の上を語り、たった数分のはずのエレベーター内でさえ、何ページにもわたる一方的な会話がなされる。

どうやら街は音楽文化に関して危機を感じていて、そのためホテルマンや市長などがどうにか息を吹き返すよう奔走しているのだけれどもそれだけでなく、個々は家族や恋人それから仕事に関しても満足しておらず、だからこそライダーに取り計らってもらうよう頼みこんでくるのだった。

しかしである。肝心のスケジュールはわからないしいざ任務をこなそうとしても場所がわからない。向かっているとおもっていた場所は遠ざかっていくし初対面であるはずの出会いが長い時間を共にしてきた家族のようにもおもえてくる。さっきまでいた場所は急に景色を変え、はたして自分は何者でどこにいてなにをしているのかさえあやふやになってくるのだった。

この右も左もわからない不思議な世界はもちろん現実的ではないのだけれども先に述べたように既視感もあって、もちろんそれは夢のなかのどうにも行き場のない場面ではある。しかしとはいいつつなんてことない日常にふと紛れこんでくる過去のことや見覚えのあるようなないようなものは確かにあって、そのなんとも言い難い空間だったり感覚だったりを物語で表現してしまえるということに驚くのだった。

なんてことを踏まえながら、物語を物語たらしめるものとはなんなのだろうという問いが頭をもたげて、それは決して実際に経験できるものだけを書くことではないのだなあ、信じさせてくれるということはひとえに物語に対する作者の愛情なのだなあと何もわかっていないながらおもうのだった。

思いつきで書いているようで、けれどそれすら見込んだうえのトリックのようでもあって。

出られない迷路にはまりこむことはもどかしくもあるのだけれど、ああ世界は白か黒だけではないのだなあ。と浸らせてくれるこの迷路のことがわたしはとても好きだった。