*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「あみ子だったみんなのこと」
2020.07.21
「こちらあみ子」を読んだ。
小説の主人公、あみ子は、とても「生きていた」ように思う。
その「生きていた」というのは、剥き出しの心で。
あの人が大好きだから、大好きと言ったら、大変なことになった。
良かれと思ってしたことは、やっぱり、大変なことになるし、いつのまにか家族は崩壊しているし、変な音もどこかから毎日、聞こえてくるけどやっぱり大好きな人は大好きで、ただそれだけ。
なぜかみんなは噂してるけど。
わたしについて。
わたしは名前も知らないのに、どころか覚えてもないのに。
といって
それがなにでどう、というのでもない。
また目の前の日々をいまを一瞬をあみ子は、飄々と、変わらず生きているのだった。
そんなあみ子は痛々しく、まぶしく、苦しく。
読んでいるといろんな光が浮かんでは消えてゆく。
それはこの小説が淡々と、
ただ状況が書かれてあるからで、読んでいたら自分のこと、それからこれまで出会った人たちのことや、ちょっとした記憶など、様々蘇らせてしまう。
小説を読んでいたらそんなふうに、
過去と今とがまざりあう瞬間があって、
そんな時間はでも特別な“何か”だなあと思う。
あみ子のように生きるうえで、
「計算」もなく「どう見られたい」もなく、
いつも全身で「生きていた」ひとたち。
を、思い出す。
みんなをぐるぐる巻き込んで、
笑って暴れて喜んで泣いて叫んでわたしたちはいっぽうでどんどん「賢く」、
なっていったけれども、
しがらみを増やしていったけれども、
いつまでも、
もう何年も会っていなくともずっと同じ場所で笑い続けているのだった。
きっと今日も変わらず、
どこかでどうしたん? みたいな顔して
こっちがどう思っていようが関係ないんだ。
以前にそんな所には居ないんだ。
だから苦しかったしまぶしかったしなんにもわからなくなるから不安になるけどでも
そんなあみ子だったみんなは今もわたしのなかで生きてる。
読んで強くそのことを思った。