yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

「すみれ」青山七恵 【再読】

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

「再読すみれ」

2019.09.14

 


くりかえし読むのが好き。
はじめて読んだときの家具の位置とか匂いとかが戻ってくることがある。ページをひらくまでは消えてたのに凄いなあと思う。

「すみれ」を読んでからも時間は経って、その間に出会えた小説もあって意識しながら読んでいたわけじゃないけど読んだあと、どうしようもなく感情がゆさぶられたり思わず自分のこととして読んでしまうのは小説が感情的にならずただ人をみて、状況を、語っているからだと知れた、レポートのようにそれこそ物語るものとして。だから書くって何なんだろなとか同時に考えた期間でもあった。もちろん主張の強い小説で好きなのもあるけど、読むたび何通りにも考えられる書かれてなかったら誰の目にもとまらずに消えていたような小さな一瞬や言葉に出されなかった何かをあらわしてくれているような小説がわたしはすきだなんだ。小説は、そういう意味でも底知れなさが半端なくて奥深いなと思う。きっといつまでも分からない。わたしは感情的になってつい沸騰したまま書いてしまいがちで(気絶翌朝)、それというのはまだ自分から離れていない物だから作品、表現というのに対しての尊敬の気持ちがより深まったのだった。

「すみれ」には上手に生きられない37歳で世間ではとうに大人のレミちゃん、という女性が出てくる。語り手はそのレミちゃんをみる「わたし」だ。15歳の藍子とちょんと触れたただけでボロボロに崩れてしまいそうなレミちゃん。でも必死で生きてるレミちゃん。うつくしいレミちゃん。の姿を追いかけているとまた感情がぐちゃぐちゃになって疲労困憊だった。目で追っているのは文字なのにそのことを思うと驚く。そんなふうにきっと読者一人ひとり何色もの幾つもの物語になってるのやろうな。というのはこれは上手に生きられないレミちゃんジャッジ物語ではないからだ。ある状況が真摯に、書かれてあって、だからこそ受け取る読者が考えられる様々。

などとつらつら、読み終わって一日経っても考えてしまうけど、結局思うのはやっぱりレミちゃんも藍子もみんな元気でいてたら良いなあということだ。存在しないけど頭に在る続きを気にしてしまう。レミちゃんのように上手には生きられないけれどすてきな人たち、たくさんいて、わたしもままならないことあるけど頑張ろう、気合いで!とかっていうよりは「すみれ」の中のみんながいたことを今もいることを忘れずにいられたらなあ。

藍子、レミちゃん、ありがとうね、
また読むときまで、またね。