*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「なぜ小説が好きか、教わった」
2017.02.02
先日ソファーに寝転んで、web河出で書かれている連載エッセイを読んでいた。
そのエッセイは「母ではなくて、親になる」というもので、主に出産や育児について書かれている。
普段紙の本しか読まないわたしにとって、貴重なインターネット読書った。
いつもどおり読んでいたそのとき、突然あついものがこみあげてきた。
なんでもない昼下がり、止まらない涙にオロオロしながら画面をスクロールする。
妊娠、出産経験の有無にかかわらず、心を揺さぶられていた。
正直な人だなあと思った。
常識や当たり前に惑わされず、自分の目で世界を見つめていると思った。
自分が恥ずかしくなった。
それは物事の正しさというより「考える」ことを放棄していたことに対して。
書店へ行き「浮世でランチ」という小説を買った。グラグラしていた思春期のころにタイムスリップしたようで、思い出すとすぐにでも穴へ入りたくなるような出来事がよみがえってきた。
けれど愛おしくなった。
さて次に読んだのは、本書「指先からソーダ」。
20代後半に書かれていたエッセイである。新聞に掲載されていたもので章は短いけれど、前述の作品と同じく、物の見方や言葉のひとつひとつが迫ってくる。
これまでどれだけ周囲に合わせてきただろうかと、一瞬立ちどまって考える。
選んできたもの、休日の過ごし方や服のテイスト、会話のチョイス、本当に望んで選んだものだろうか? と。
性別のこともそうだ。
これまで、男と女を正反対の生き物と思っていた。
境界線、二つには分けられない、ということを無意識のうちに考えないようにしていた。
異性イコール恋愛の対象だと決めつけていた。
男女間の友情など無いと頑なだった。
そして「女性作家」とくくられることへの違和感や、恋愛感情は損得だけで量れるものではない、という文章を読み、ああそうか、だから小説が好きなんだ、そうじんわり思った。
必ずしも枠にあてはまらないことや、言葉にならないゆらゆらした感情。
物語をひらけば無限の世界が受け入れてくれる。
蓋をしていた思いにふれることができる。
小説に正解はなく、どうしようもない偏屈な人もたくさん出てくる。だからこそ愛おしい。
なにも、そこまでのメッセージを伝えたくて書いたのではないかもしれない。
小説は読者各々、自由に楽しんでほしいと書いていらっしゃったから。
けれどわたしはほんの少しづつ、自分のフィルターを通して感じることができてうれしい。
だってこれはわたしだけの感情だ。
本の紹介でもなんでもないファンレターのようになってしまったが、なぜ小説を読むことをやめられないのか、説明しようのない思いを教わって、感謝でいっぱいである。