yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

「深い河」遠藤周作

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

「深い河の愛」

2020.07.04

 


昨日、グレアム・グリーンの「情事の終り」を読んでまた、遠藤周作さんの本が読みたくなった。

信仰について書かれていた作品だったので続けて手に取りたくなったのだ。

選んだのは「深い河」。

ここ最近は海外文学に夢中になっていたのもあり、まだ作者の作品はすべて読めていないが、「海と毒薬」など読後しばらく小説世界から抜けきれなかったのを覚えているし、

そしてわたしは小説よりおそらく、これまでエッセイのほうを多く読んでおり、“狐狸庵先生”の趣味を謳歌される姿だったり、度々挟まれるユーモアなどたくさんの笑顔をもらって、一時期読むのをとても楽しみに日々を過ごしていた。

純文学作品とエッセイとで雰囲気が違っていることを、作者が書かれていたのをどこかでわたしも読んだことがあるけれど、開けばいつも感じるのは一貫して愛で、闘病生活などわたしには想像もできない苦しみを経験されたことや、作品内での弱きものに注がれる眼差しなどすべてはつながっているように感じる。

そして「深い河」を読み終わった今は、ページは折り込みだらけになった。

特に印象に残った登場人物は「大津」で、彼は周囲といつもうまく馴染めず、それは神の道を歩むことになっても変わらず、

彼が神を「玉ねぎ」と例えていたのが心に残った。

というのは、大津の中にある優しさからだと思ったから。

過去関係を持った美津子に大津は神を「玉ねぎ」と例えたのだった。

いずれかの宗派に属すことは、それも神父の道を目指した大津はある種、それ以外には属さないことを求められたわけだけど、大津の優しさはそれ以外を否定することまでは出来ず、叱責され、

ではなぜ仏教に向かわないのかと問われもし、キリスト教家庭で育ち、信じているかと問われれば言葉を濁していた場面もあったけれど、でも無いことにもできない彼の葛藤は、読んでいて苦しく、けれどやはり大津の優しさを、愛をあらわしているようにも思った。

作品内のガンジス河のように。

ガンジス河はすべてを包み込んで、そこには死者も流れている。生きている者との間に隔たりはなく傍らでは顔を洗っており、

わたしはインドへは行ったことはないし、想像でしか「見る」ことは出来なかったが、その河の景色に「綺麗」という言葉は無く、むしろすべてを包み込むぶん河は死者の匂いと泥の茶色、それぞれの背負ってきた過去など人々の悲しみをも隠さずただ流れていた。だからこそその姿に、多くの人たちが人生を振り返っていたのだと思った。

また大津以外にも、登場人物たちの思いがあった。

皆それぞれ思いを抱えて旅に出たこと。

ある者は妻を亡くし、またある者は戦地での誰とも分かち合えない傷を負っており……。

ほかにも、人の数だけ、いやひとりの中にも幾重もの物語がある。信仰がある(大津は『信頼』とも言っていた)。

信仰とは特に現代では、日本では無宗教が一般だから、
ふだんの生活では大きな言葉に聞こえるけれども、
わたしは最近言葉を通じてそうではないのを知った。

以前谷川俊太郎さんの本を読んだ際、幸せとは個人的であり、プライベートなものであるというのを読んだが(そっくりそのままではないが)、信じるというのもまた個人的な心の内側のものに思える。

特定の大きな枠でなくとも、例えば一冊の書物に触れて良いなあと思ったり、景色の美しさを尊んだり。

わたしの場合はこうして読んでいることもなんらかのものを感じることがある。
なぜならばもうこの世にはいない、作家の残した言葉の多くに影響を受けているからだった。助けられているからだった。そのことはやはり一言ではいえないが、なんらかのものを感じられる。