それが小説であっても海外ドラマであっても、日々様々な言葉に触れて、あたらしい世界を見ているわけだけど、ときどき思うのが、結局励まされるのは自分の言葉だなあということ。
なんてことを書くとナルシスティックだけど、なんとなく部屋を掃除していたら、過去の日記とご対面なんてことになって、ふだんは封印しているそれらの言葉たちがブワッといつかの景色を伴って襲ってくるのでした。
ああ、あのときあの場所で書いていたな。
あのことですごく悩んでいたな。
でもなんとか書くことで精神を保っていたなあ、とか。
その中に、たとえ褒められたようなもんじゃない言葉が多々混じっていたって、それでもそのときはほんとうに思っていたことで、そんなふうに自分に向けられる言葉って、自分以外届けることはできないわけで、毎日読み返すには小っ恥ずかしいけれど、ときどきふと目にしてなんだかすとん、と気持ちが楽になるのでした。
よく作者が、作品が手元を離れた時点でそれはもう自分のものではなくなる、と言っているのを読むけれど、それもやっぱり読み手の数だけ感じ方があるからだろうし、結局自分がどんなふうに感じたか、そのときの体調だったり環境だったり、体に染み渡って言葉を選んだり選ばないことを選んだりするのかなあって思ったのでした。
思えば思春期爆発と共に貪り読んでいたときはなにか正解があるのではないかと、救ってくれる言葉があるのではないかと、そんなふうに読んでいたところがあります。
でもほんの少しだけその時期を経て思うのは、どんなに忘れられない本であっても、それは“わたしが”読んだ忘れられない本であり、そこから歩き出すのはわたし自身であることで、雷に打たれたように無我夢中で読んだ読書体験は宝物だったけど、影響を受け、無知だった世界が広がったけれど、すべてを委ねるのでなく、この平凡な人生を、けれど一度きりの人生を本と“共に”ぼちぼち歩いていこう、ということなのでした。
では、また書きます。