*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「大切な小説です」
2020.06.11
「すみれ」をはじめて読んだときわたしは、気持ちが暴走しておもわず手紙を書いたのでした。
そして時が経ってもう一度読んだときもわたしは、おもわず手紙を書いたのでした。
読み終えたあと気持ちのもって行き場がなくて。
そしてまた時が経って、きょうのわたしは余裕しゃくしゃくで、というのもここ最近じぶんでじぶんに言い聞かせていたからです。
何事も急に完璧を求めるな、長い目で見ろ、被害妄想するな肩の力を抜け! と。
というわけでもうすっかり大丈夫さ、なんだか心はゆるやかになった気がするし、感情の爆破が起こった「すみれ」を読んだところで「ああ、あの頃は感傷的だったなあ……」となるはずだと思っていたらけれども、やっぱりこの小説はひらいたらあかん。
でした。
どうにもこうにも気持ちがぐちゃぐちゃになるのです。
悲しいも愛しいも苦しいも、それらになるまえのものもぜんぶがぐるぐるにまじってしんどい。
だからまた読めてほんとうに良かったなあ、という気持ちとなんでまた読んでしまったんやという後悔にも似たものがぶつかり合います。
でもそんなふうに同じだけ正反対の気持ちがぶつかり合う小説は忘れられないから、読み終えたあとも忘れている間もどこかでずっと芯みたいに残っているから消えません。
つまりとてもわたしには大切な小説であると改めて思いました。
この小説にはレミちゃんと藍子との日々が描かれているけれど、あれがだめでああしろとかこうしろとか、読者に訴えてくるわけではありません。
ただ、レミちゃんと藍子とが過ごした短いひとときのことが、文字になって、言葉になって、書かれています。
だからわたしはいつも、ひらくと本にすっぽり包まれて、ほかのことぜんぶ見えなくなって作者がどういう経緯で書いたとかなんだとかそんなことちっとも考えません。
一気にお話のなかへと投げ込まれます。
レミちゃんと藍子といっしょになって時間を過ごすことができます。
強い気持ちになってしまうので頻繁には読めないけど、この「すみれ」がいてくれることがうれしいです。
本なので「いてくれる」、というのはおかしいけど、でもとにかく色々がまじったうれしい気持ちです。