yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

「或る少女の死まで 他二篇」室生犀星

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

「あの頃との再会」

2020.01.26

 


近ごろ、ヘッセの小説を読んでいてもそれからこの小説を読んでいても改めておもっていたのは人は、読むことでもう一度過去と会うことができるのだなということだった。

もちろん、この「会う」は「若返る」意味でなく今ここからあの頃を見て、とある日を浮かべたり後悔したり愛おしくおもったりあるいは、在ったんだと再確認したりなどまた、言葉には置き換わっていなかったものを言葉としてはじめて心に置いてみたりなどこれまでにも読んで過去に戻っていたことはあったけれども今ここからでも、会えるんだなあと、じっさいに心で強くおもえたのは自分には大きなことだった。
或る少女の死まで」を読んだ。
作者のことは知らなかったが読みはじめてからいつも図書館でこわい顔してはるなあとおもっていた銅像の3人の内の1人だと気付いた。次からはちょっと通り過ぎる際見てしまいそうである。こわくないのかも。
と、つい脱線してしまうのを戻して「或る少女の死まで」。
表題作は最後だったがはじめの「幼年時代」から文章の雰囲気にとても惹かれた。むかしの日本の小説に苦手意識があるのだけどなんで読まなかったんだとおもった、ってどう考えても読まなかったのはその苦手意識のせいである。
それで「幼年時代」を読みながら自分の幼年時代をもおもわず迎えに行ってしまっていた。「ガリマ」隊の探検を読みながらそういえばむかし木に登って柿を取ったなあとかまた、「私」が生みの母をなんども訪ねて行くところはしんとした部屋で気持ちもしんとなった。色々重ね合わせて読んでしまっていた、というのはわたしはいつもそんなふうにしか読めないのですぐ過去に巻き戻ってしまう。「私」が、姉の床にもぐりこむところも。感情移入して読んでしまっていた。「私」の出自は書く上で大きかったとおもう。出自、つまり自分の出たところがどうにもしんどいといつまでも持ち続けてしまうから。
そして、「性に眼覚める頃」。
の、賽銭を盗む女を見ての「私」の感情も
「私」が女をただの賽銭泥棒としてしか見ていなかったらあんなふうには書けなかっただろうなあとおもったのだった、「私」は、あの一瞬にある意味で女からあたらしい世界を感じたのかなあと綺麗だけでないけれども“うつくしい”女の一瞬から世の様々を見てしまったからこその。
からの、最後の「或る少女の死まで」では大切におもえた一文があった。

なんども読んでいた。現実、そうはいかないとしても読んだことで豊かにおもえた心があったから。「私」が、少女らに神聖なものを見ていたように「私」にもおなじものが見えた気がした。生きる、ということそのもののような「私」の決意の言葉だなあと。

うれしかった。色々を呼び戻しながら読めて。