yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

ジョン・アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」チャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章を転載していきます。

 

 

「生きていていいんだ、たとえ何も持っていなくとも」

2017.03.07

 

 


なにか特別な出来事があったわけではないのに、突然、今日という一日に嫌気がさすことがある。正体のわからないその憂鬱は対処のしようがなく、いくら絶賛されているドラマや映画をつけたところで晴れることはない。また、そんなときに目にする綺麗ごとばかりの言葉ほど気落ちするものはない。

 

 

はたから見れば、ただの気分屋だ。自分だってそんな状態の人間とはできるだけ関わりたくない。問題は外ではなく自分の内側にあることは分かっているけれど、どうしようもなく得体のしれない不安を感じることが、人生には時としてある。

 

 

出だしから暗いものになってしまったけれど、そんなひどい状態の自分を、変わらず迎え入れてくれるものがある。それこそがこの世に無限にある本というもので、書店に行けば、図書館に行けば、あまりの未知数にクラクラしてしまうほど。

 

 

今年に入ってからわたしは狂ったように本をむさぼり読んでいて、きっとそれは、繰り返しになるが、しつこく続く憂鬱状態になんとか新しい風を入れようとしているのだと思う。もちろん数多く読めばいいというわけではないし、ずっと本にかじりついているからといって劇的に世界が変わることもない。実際は、ただ部屋でじっとしながら文字とにらめっこをしているだけだ。

 

 

 

けれど、そんなことは分かっていても、やっぱりどうしてもやめられないのが本の憎いところだ。もうこれ以上感動する本には出合えないかもしれない……! そう確信した数日後にはまた、しつこく同じことを繰り返しているのだから。

 

 

今月に入ってからも、もう何度目になるかわからないその思いを味わった。シミルボンでは主にエッセイのレビューを書いていたので小説は控えていたのだけれど、まず一冊めがジョン・アーヴィングの「ホテルニューハンプシャー」。

 


 

 

読みたい読みたいと思いながらもなかなか手がつけられずにいたこの作品は、けれど「いま」読むことに意味があったのだと思えるほど、わたしを救ってくれた。上下にわたる長編はまったく長さを感じさせず、終わってしまうことが辛かったくらい。

 

 

 

物語に出てくるある家族には、もう勘弁してくれよというほど、次々に悲しいことが降りかかる。けれど当の本人たちはたんたんと「そういうものなのだ」と受け入れていて——もちろんきちんと悲しむことも忘れないけれど——「何もおこっていない」にもかかわらず嘆く自分よりずっと、人生を生きているように見えた。

 

 

 

二冊めは小説ではなく日記になるのだけれど、チャールズ・ブコウスキーの「死をポケットに入れて」。

 
 

 

今年に入ってブコウスキーに出会ったわたしは著者をまだなにも理解していなくて、けれど何冊かをむさぼるようにして読んだ経験は、理解することなど必要ないのかもしれないと思えるほど、心から楽しかった。

 

 

 

本書は、94年にこの世を去った著者が、死の三年前から書いていた日記である。「死をポケットに入れて」というタイトルのとおり、もうすぐやってくる終わりを悟っていたことが文面のあちこちから伝わってくるのだが、恐怖はみじんも感じられなかった。

 

 

 

酒をあびるほど飲み、競馬場へ毎日足を運び、警察のお世話になったこともたびたびある。若いころはかたっぱしから女をひっかけ、家賃の催促に怯え、貧困に苦しむ日々。それは同じく小説の登場人物にも反映されているのだけれど、おそらくテレビでは流せないような卑猥な言葉がたびたび出てくるにもかかわらず、読んでいて少しも嫌な気持ちにならない、むしろ終わりに近づくにつれて愛してしまっているのはどうしてなんだろう。

 

 

 

想像するに、それは死に恐怖を感じなかったことと同じく、確固とした「芯」があったからではないかと思う。人は年をとるにつれ自分の思いや言葉に蓋をし、世間の求める「大人」になっていくが、そんなものはくそくらえだと、自分の信じる道はこれだと、声を大にして言える「大人」がどれだけいるだろう。

 

 

 

もちろん、自由のそばでは誰かが被害を被るかもしれない。けれどそういった出来事ほど、頭にこびりついて離れないからまったく不思議である。どんなに仮面をかぶっていようと、そもそも誰にも迷惑をかけないで生きることなどできないのだから。

 

 

 

彼が彼自身のために書いた文章は、誰の目も気にしていないからこそ心を揺さぶられる。この世は面白くもない出来事ばかりで、けれどそれでもまた朝はやってくる。まあぼちぼちやるしかないのだと、そんな当たり前のことを気づかせてくれる。もう少し、もう少し生きてみようと思える。

 

 

 

紙に印刷された黒い文字。その集まりを追いかけながら、「何も持っていないことなんて、最初からわかっていたことじゃないか」と気付かされる。欲張りで自惚れやのわたしは、そのたび何度も頭打ちをくらうのだけれど、反面、何も持っていないことは驚くほど自由だということにも気づくのだった。