yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

アリス・フェルネ「本を読むひと」

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

「本を読むひと」小さな光の塊

2020.01.25

 

 


数日間、「本を読むひと」を読んでいる中で、
読まないでいた生活の隙間にも、
「本を読むひと」に登場する子どもらが、頭の中で車の周りを走り回っていた。裸足で。キャッキャと声を上げて咎められながらも走り回っていたのだった。

 

じっくりと読んだ。
というのは、たくさんの時間が詰まっていたから。一家の家長アンジェリーヌは孫もいるお婆さんで、様々なものを見てきた逞しい精神の持ち主だった。
そのアンジェリーヌを始めとして、ジプシーの大家族は皆で生活をしていた。

その中の誰ひとりとして、文字を読める者はいなかった。
それどころか、住んでいる場所は清潔さからは程遠かった。
と言っても差し支えないぐらい、ただ生活を、「生きる活動」を重ねていくことだけが目の前にはあった。 
またその分、一家の日々は欲望に忠実で、だからこそ痛みと共に常にあり、暮らしの厳しさに満ちていたが生命力が漲っているようにも見えた。

その場所へとやって来たのが、エステールというひとりの図書館員だった。
本を携えて。
子どもらに本を読みに来たのだった。

最初は、アンジェリーヌにも、また、息子たち、その息子の妻たちにも不審な目で見られていた。
それまでの生活では、まるで関わりがなかったから。

一方、子どもらは
わりとすぐに馴染んでいたように見えた。
エステールは、急かす子どもらを時おり宥めてはゆっくりと読んだ。
登場人物になりきったり、鳴き声を真似たり。
じっと黙って聞く子どもたち。
わたしが特に好きだったのは、読み終わった後に子どもらが、感想を言い合うところだった。あちこちから突っ込みが飛び交って、
そんな、素直な感想に物語でありながらこの時間がいつまでもいつまでも、続けば良いと勝手ながら思っていた。
エステールの朗読は、子どもらの真っ直ぐ突き刺さる視線は読んでいるわたしにとっても、実際にその場が見えるようで、励ましでもあったから。
小さな光の塊、
目立たずとも、静かに燃える、確かに在った時間の塊。

次から次へと、襲いかかる出来事たち。
死別もあった。妊娠もあったし、事故もあった、病気もあった。恋も。
また何といっても子どもらの内の1人が、学校に通い始めたこと。エステールの働きかけがあって。
でも、その場面は読んでいてとても苦しかった。
その子ども、「アニタ」は学校では良い思いをしなかったから。
そのことに耐えていたアニタ
子どもらの社会にも当然悪はあって、むしろ率直な分残酷過ぎるくらいで、身だしなみについてからかわれたり、などの場面では
アニタ、どうかどうか生き延びてやとおもった。
頑張らないで良いから頼むから、とおもった。
自分ではどうしようもないこと、特に不潔などと指摘されるのは辛いからだった。わたし自身もよく臭いと言われていた。気持ちが分かるなんて言えないが祈ってしまっていた。
もう無知のままで良い、
知識なんて知らないで良いとおもってしまっていたアニタのことを。

そして、徐々に本を読む時間は子どもらだけでなく、皆の物になっていった。エステールが家長アンジェリーヌとの会話を慈しんでいたように、お互いが、お互いを必要としていたように。

そうやって培われていった時間、
物語の後半。のアンジェリーヌからの言葉は心に直接届けられているようだった。物語の中から、今ここへと直接。

胸を張って生きてきたからこその、アンジェリーヌの魂の言葉。

「本を読むひと」。
の中の小さな光のような時間の塊、
風景、早く読んでとせがむ子どもらの声が響いて、エステールの心、みんなの心、囲い合った焚き火とそこから、パチパチと鳴る音。

少しずつ、一家に物語が滲んでいったように、
わたしも、本のなかの本の時間を見た。

以前読んだ「ミスター・ピップ」もまた、ディケンズの「大いなる遺産」の世界に浸る子どもらの物語だったがその際にも、
おもっていたことやっぱり勝手ではあるけれども
みんなの「その後」がどうか、どうか。