yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

「真昼の悪魔」遠藤周作

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

「わたしたちは線引きできない世界で生きている」

2019.03.23


以前、ドラマで放送されていた際にチラチラみていた「真昼の悪魔」。

そのときは集中してみていたわけではなかったので主演の田中麗奈さんが、なんだかえげつない役をしてはるなあぐらいにおもっていた。

物語は教会のシーンからはじまる。
神父が信者たちに説教しているのは「悪魔」について。

神父は話す。
わたしたちは、悪魔なんて想像の産物だ、映画の世界の話でしかない、そう思っている。
けれども、むしろそう思われたがっているのが悪魔なのであり、

くすくす笑い声すらきこえるほうに語りかける。

舞台は大学病院。
結核を患った男子学生の難波は入院生活を余儀なくされる。
退屈な入院生活。最初のうちはおとなしくしていた難波だったが、徐々に、病院内部に不穏な空気が立ちこめているのに気付きはじめる。
だれかが、意図はまるでわからないが人を操っている。知恵遅れの男の子に女の子を池へ突き落とすよう誘導させるなど、得体のしれない「恐ろしいこと」。
難波は、芳賀という男とともに真相を追うことにする。

一方視点はかわり、病院で勤務している女医の生活が描かれる。
女医は、日々を空虚なものだと感じている。なにに対しても無感動で、人前では笑顔をつくるものの気持ちが満たされることはない。

悪とされていること、を行ったところで良心の呵責をまるで感じない彼女は世間のいう殺人や強盗などではなく「ほんとうの悪」とはなんだろうと考えるようになる。殺人も強盗もなにか背景があっての、しょせん事情があってのことではないか。そんなのはわたしには悪とはおもえない、と。

読みながらこの一見恐ろしいとされている女医に試されているような気になる。
すくなくとも彼女は考えていて、自分のなかにどうしようもなく黒い穴が存在することをわかっているからだ。

あなたが考えている悪とはどういうもので、どうしてそれはいけないことなのか。
世間でいけないのだと決められているから自分も、自動的にいけないのだとおもっているだけで、ではなぜいけないのかときかれたら “自分の言葉で” こたえられるのか。「いけないからいけないのだ」、としかいえないことがあるのではないか。

心でおもっていること。おもっていることを飛び越えること。
ふたつの間にはどれぐらいの溝があるのだろう。

善と悪とは。信仰とは。
そして、その境目とは。

もちろん彼女は極端だ。極端すぎて大勢のためにならひとりが犠牲になってもいいとさえおもっている。ドストエフスキーを愛読し、「罪と罰」のラスコーリニコフの婆さんに対する衝動の部分に共感している。

では彼女は正真正銘の悪魔なのか。「真昼の悪魔」とはこの物語でいうどの人物にあたるのか。はっきり線引きできるものなのか。これは単なる「おはなし」に過ぎないのだろうか。

たくさんたくさん問われているようで怖くなった。
たいせつな一冊になった。