*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「狐狸庵先生に夢中」
2019.03.20
すっかり狐狸庵先生のファンになってしまった。
「老いてこそ遊べ」というエッセイ集を読んだ。
出典をみると、大半は自分がうまれるよりも前に書かれたものだった。
だけど、2019年のいま読んでもものすごくおもしろくて。
今回も何度もふきだしてしまって、特に「夜なかに、さけぶこと」という題のものはくりかえし読んだ。
ある日知り合いの雑誌記者の訃報をきいて、果物籠を持って出かける。
家の玄関をあけ、
「遠藤と申します。このたびは……」
と頭をさげる。
ところが出てきた人はこまっている。家を間違えていたとのこと。あわてて家を出る。
それから果物籠を忘れたのに気付いて取りに戻る場面は笑っちゃいけないが爆笑してしまった。
純文学作品を書かれていた一方、自身に「狐狸庵」という名をつけられ、自分をひとつに縛らずにダンス、劇団、歌、ピアノ、手品……まだまだほかにも。
いいなあ、ほんとうにすてきだなあとおもった。
しかも、得意だからやるというのではなく、たとえば歌でいうと音痴なひとばかりを募ったり(うますぎると不採用!)、劇団も、素人だけで行っていたのだとか。
その理由が、上手い人ならわざわざうちに来なくても歌ったり踊ったりするチャンスはどこにでも転がっているでしょう、とのことで、なるほどなあ深いなあ。
下手だからといってやってはいけない、なんてことはないのにわたしは気付けば「こうあらねばならない」呪いに、勝手に苦しんでいることが多い。
「周作塾」という本もいま、読み出したのだけど、名前を複数もち場面によっていろいろな自分をもとう、というのには心底なるほどとおもった。
長所も短所も「極端」であるわたしはつくづく固定概念に縛られているなあと。元気をもらえた。
後半は、過去を振り返りながらの話が多かった。
大病をされ、これから、というときに入院生活を余儀なくされた作者の、生と死をみつめる回想。
を、時間が経過したいまになって読んでいるというのがなんだか不思議な気持ちだった。
三か月に一度、気をつかわないでおもいきり笑い合える友人三人での食事をたのしみにされていたそう。大声で、健康のことやむかし話を語り合われていた場面を心に思い浮かべながら「そのとき限り」の儚さをおもって、でも同時に「いま」語りかけられているようで心強かった。