子どもの頃からよく「極端やなあ」と言われていたのですが、大人になってもその極端さは変わらずそして単純な性格をしていてすぐに感動、すぐ影響されパーッと酔っ払ったようになります。
作家や芸能人のインタビューを読んでいると「昔から好きな芸能人とか憧れの人はいなかったです」というのをよく見るけれどすごいなあというか、お互いに持って生まれた性質なのかなとか、憧れと共に生きている自分なんかは驚いてしまうのでした。
それでいったいあと何回繰り返すんだ?ってこと。
それは「こ……これ以上のものにはもう出会えないかもしれない……」と雷に打たれると共に不安になるあの気持ち。
それは本やドラマなど作品だけでなく、これ以上のアイシャドウにはもう出会えないかもしれないとか、こんな使いやすいバッグってあったのかとか、このガパオライス美味すぎる、もしや前世はタイ?とか、それって値段関係なく、顔色をぱーんと明るくしてくれたり機能性とデザインがぴったりだったりタイ生まれだと錯覚したり以下エンドレスする。
で、そんなときって感動したそのものにハマっている時期でもあるから、要注意なのは頑固になってしまうときであたらしいものに挑戦する気持ちが億劫になること。
これ試そうかなあ、いやでもあれ以上の物はないやろ♩と喜びの気持ちで思うならいいけれど逆であると世界が狭くなってしまう。
なんてことを思ったのは、以前書いていた読書感想文を読み返していたからで。
自分にとってはとてもたくさんの本を読んだ時期だったのですが、いっぽうであんなに世界について悩んで考えていたつもりだったのにこれだけで分かったつもりだったのか、とも思ったのです。
もちろん数で測れるものではないですが、すぐに目の前のものが世界のすべてであると思ってしまいがちで、けれどこだわりを捨ててえいやっと開いてみたならばこの世には生きている間には知り得ない宇宙がそびえているのであって。
挑戦するだけでなくおもいきり休むことで開かれるものもあるし、程遠い「柔軟」という言葉を胸にお守りのように持っていたいなあと思ったのでした。
さて昨日そんなことを考えていたのもあって見始めた「新米刑事モース」。
イギリスのドラマって独特の雰囲気でいいですね。
「ダウントン・アビー」「埋もれる殺意」「ライン・オブ・デューティー」「ハッピー・バレー」あとなにみたかなあ、おもしろいドラマあったらどんどんみたい!
そういえば吹き替えで見始めたのですがふだんは字幕派でけれども「お、吹き替えもいいな」と思ったのが一番は目の疲れ具合。
「埋もれる殺意」もそういえば吹き替えでみたなあ。そんなこだわりも捨ててこれからはどんどんみたい。「埋もれる殺意」主演のニコラ・ウォーカーといえば「ザ・スプリット」というドラマもおもしろかった。なんて言い出すと止まらないけれど、「新米刑事モース」の静かに進む世界観、音楽、街並み、イェーイ!なアメリカドラマ(作品によるけど)とはまたトーンが違いどっちも好き。
長々と書いてしまいましたが子どもの頃よくやっていた「けんけんぱ」くらいの気持ちでジャンプしてかろやかにきっとこれからも変わらない単純さを抱えて「あたらしい」と出会おう。