*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章を転載していきます。
「本を開けばいつだって」
2018.04.14
煮詰まったらとにかく外、窓を開けて散歩に出てチラチラと、すれ違うひとすれ違うひとを思う。いや思う通り越して妄想爆破、あちらの奥さんはアベアキエ主婦ジム帰りかなあとか数日後に迫った同窓会緊張中かなあとか考える。マツエクは予約したかなとか思う。そんなふうに何一つ当たっていないであろう妄想をやめられないのはおそらくこの、いまも考え続けてしまうこのこれこの思考ってやつが、みんなみんなに絶対的についているという事実がどうしても信じられないからで、そうなると夏のお祭りなんかはもう、花火大会なんかはもうどういうことなんですか。
だって信じられないぞろぞろ駅まで歩くひと、ひとひとひとこれらみんな何かを思っている考えている、おしっこ行きたいさっさと前歩け花火綺麗、二度と行くかいつ告白しよう下痢気味やなあ、ってわあああああどういうことですかこれ家家家、トイレにキティー離婚調停入学式って本間にぃぃぃぃ!? とこのへんでやめておかないと診察を強くおすすめされそうなのだけれども、なんだか信じられないときってないですか、そういうときこそわたしはというと、診察拒否からの本を開いてしまうのだった。
ポール・オースター「ブルックリン・フォリーズ」を読んだ。
大好きなポール・オースターの小説の、この小説に関しても言えること、そうここにはお涙頂戴もどんでん返しもないけれど、ほかの作品と同じくどうしようもないほどにひとの街の生活の音音音。生きる力を失ってさまようネイサンも、古書店で再会する太りすぎたトムも話さないルーシーも、だからわたしは一瞬にして愛おしい。そして思う、ああここにはみんながいるなあと、見たことも歩いたこともないけれどみんながいるなあと。
読み終わってぱたんと閉じたら部屋ここは、ブルックリンでもなければネイサンが足繫く通った店でもないけれど、しかし何かが違うようなそうでないような、深呼吸して靴履きドア開けて、通りすぎるひとに親近感なんかもってしまったならもう、あのひともあのひともひとひとひと、わたしと同じ正しさだけでないこころをもったひとなのだと昨日よりも信じられたならもう、それだけで(たったひと時であっても)生きていけるような気がするのだった。