yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

ジョン・アーヴィング「ひとりの体で」再読

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章を転載していきます。

 

 

「『ひとりの体で』を想って」

2018.04.24

 

 

「ひとりの体で」を読み終わり、今は「また会う日まで」を読んでいるのだけれど(これまた大長編で幸せ)、アーヴィングの小説を読んでいると色々なことを思い出す。


アーヴィングの小説には、いつも魅力的な言葉がたくさん登場する(もちろん日本語に置き換えられた言葉だけれど)。それらの言葉を眺めていると、わたしは通り過ぎてきた過去をおもって、自分を、それから側にいた人たちをどうしてもっと大切にできなかったんだろう、と悔しくなる。「そういうもの」だと受け流してきた状況や、「無いもの」として蓋をしてきたたくさんの感情が、わっと溢れ出てきて目を瞑りたくなる。


「不適切な思慕」という言葉や、女役を演じ続けたお爺ちゃんや、少女的な胸をした図書館司書。そのどれもが読み終わった今も頭から離れずにいて、下巻で訪れる病が、「ホテル・ニューハンプシャー」の娼婦が、「未亡人の一年」の壁に飾られた写真の数々が、ごっちゃになって混ざり合う。


思えばわたしの側にも、ミス・フロストはいたのだと思う。もちろん、実際のミス・フロストとは違っているが、「モモ」や「果てしない物語」を手渡された瞬間も、匂いを思いきり吸い込みながら「チョコレート工場」を聞いた夜も、この人の腹から出てきたのが自分であれば良かった、と抱えた感情も、全部が相手あってのことだったから。


そして、成長途中だったあの頃の自分たちを思い出す。新しい衝動を知り、その衝動に怯え懸命に隠すも気付かれて、おろおろするしかなくて。でも、おろおろするのは格好が悪いから、結局は小馬鹿にすることでしか、関わりがないと決めつけることでしか衝動を保てなかった。


わたしがもしもミス・フロストの立場であったなら、おろおろしている誰かが目の前にいたのなら、一体どうしてあげられただろう?


ううん、「あげられた」という言葉自体多くを知っている言い方になっているけれど、そもそもがわたしは何も見てこなかった。性も、美醜も、相手の感情も。渡されたままのものをそのまんま受け入れて、疑うことも、考え直すこともしなかった。だから、ミス・フロストの取った行動の正しさについては分からないけれど、ミス・フロストが強かったことだけは、自分を縛り付けなかったことだけは、分かる。ような気がする。


「みんな違ってみんないい!」 なんて声を張り上げて音読していたけれど、わたしはいつだって誰かになろうと必死だった。誰かになることしか見えていなかった。わたしは誰かではないのに。

 

アーヴィングの小説に出会ってしまったから。今はもう、ただただ読みたくって仕方がない。そうだったかもしれない自分を、誰かを思わずにはいられない。ないものにはできない。


わたしは誰かになることはできないが、わたしとして、わたしだったかもしれない誰かを思うことはできるのだ。