yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

ヘルマン・ヘッセ「荒野のおおかみ」

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

「今年はわたしはヘッセを読みたいよみたい」

2020.01.08

 


また再びの夢中で読んでしまっていた、今年はわたしはヘッセをたくさん読みたいのだった。

小さい頃からわたしは本を読むのは好きだったけど、でもまた夢中で読むまでには期間が空いていて誰が有名でどの作品がどうとか何も知らなかった。それで手当たり次第好きだなあと思うのとか好きだなあと思う作者が影響を受けたのとかその本に出てくるのとか気付けば夢中でのみこんでいった数年だったのだけど読み終わったあとに青春のとか思春期のとか色々と知ることにもなってそうなのかあ、と思って赤面することもあった、あまりにも無知だった自分に。でもやめられないのでどんどん読んでいった。ら、去年の年末にヘッセの本に出会ってヘッセの本にはもう少し前に先に「デミアン」だけを読んでいたのだけどでもその当時はそれほどには心には刺さってこなかった。面白かったが、まだ呼ばれてないなあという感じで。
それから「車輪の下」を読んで「郷愁」を読んで「漂泊の魂」を読んであと、「メルヒェン」も読んだり慌てて知りたい覗きたい欲を抑えつつ一気に。
影響されて「ファウスト」もがりがり読んでみたのやけど上巻のファウストが知の世界にうんざりしてメフィストーフェレスに出会って色々、までは面白く読めたのやけど上巻後半〜下巻あたりからはまるで呼ばれてない感じで寝かせておいたり、でもまたそんなふうにして背伸びしたのがたのしかったり。

 

それで今日は、昨日からは「荒野のおおかみ」を読んでいた。わたしはすぐのぼせ上がって熱狂してしまうところがあって例えば一度読み出したら沸騰してそのまんまここにも感想を書いてしまったりだとか、冷静、というのがまるでなくてそのことについて気にしたりすることも多々、なのだけどでも一方でその渦中にいる間は文字の中にいる間はそんな諸々も飛んでいってしまっているのもひとつ。
荒野のおおかみ」には本当に色々が詰まっていた。本当に色々が詰まっていたなんて分析でも何でもなくただの感想で毎度じぶんのことばっかりであれなのだけどでも本当に色々が。
人の中にはいろんな自分があって、とかこれまでにも実際にここにも書いたりしてきたのにわたしは何も分かっていなかったなと思った。というのは、自分自身も生活を上手くやれないのとそれでもどうにも道化になる自分との2つだと、思い込んでいたところがあったからだった。2つなんかではないのを知った。書いていたら当たり前なのだけどでも全然、分かっちゃいなかった。今も。2つなんかでは全然足りないのだった。もっとグレーで、曖昧でだからこそ滑稽なところも正しくありたいと願うところもたのしくどんちゃん騒ぎするところも本当に数えきれないそれも日によって秒によって色を変える面があるからここから先はこの自分で、とか分けられないのにだからこそグレーな、曖昧な人を描いた丁寧に描いた小説が好きやったのに何で、自分のこととなると全く見られないんやろうなあ。でも、それを文字の中でぐるぐると考えられたのは大きかった、とはいえ悪い癖で慌てて他は(生活は)忘れて読んでしまっていたのでまた読まなければ。こんなにも生きると死ぬが詰まっていたのにもかかわらず作者はもういないんだよなあ、でも、肉体がいないだけなのかな、いる、いないってそもそもなんだろう。だってわたしは今いる人にも実際には面と向かって会っていないしこれから先も会うか分からない人も多いけどでも一方で肉体はいなくなった作者が書いた文の中にとても親しみを感じている。とても、とても。というのはこの作品の中にも何度も出てきた永遠のことと関係しているのやろうか。死は、ない、というのをいつだったか池田晶子さんのエッセイの中で読んだけれどもそんなことを書き出していたらそれこそ永遠に止まらないのでいったんは、おわり。
とにかくわたしは今年はヘッセを読みたいのやった。今年は、なんていったって今が在り続けるだけやが知りたいなあ。でも、作品にもあるようにただがむしゃらに知識だけをお勉強したってわたしには無意味なのやろう。なんせ影響されやすいので爆破する。だから自分を知るために、読みたい、よみたい。
ヘッセは、最後まで平和を説き続けて国にも分かってもらえなくてそれでも。自分との対話の暗いくらい深い闇の中で対話していたんやなあ、と思うと想像を絶する。読めたなんて日はこないとおもう。でも読めて良かったなあ、と、心からおもうのやった。