yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

ヘルマン・ヘッセ「春の嵐 ゲルトルート」

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

「ひたすらヘッセ読みたい2020」

2020.01.14

 


ヘッセばかり読んでしまう近頃。

春の嵐」を読んでいた。
ヘッセの作品はやっぱり、色々なことを考えられるので読んでしまう。それも、外でなく自分の内にとことんまで潜っていける感じが落ち着く。
ヘッセの作品には、故郷を思う気持ちがよく出てくるけれども、それというのは、過去に戻りたくて仕方ないとか、そんなんではなく、ただ、過ぎ去ってしまった時間に今立ってる地点から、振り返ってしまう感じがとても読んでしまうのだと思う。
あと、やっぱり自己との対話。
常にどの作品でも主人公は、あるいは登場人物たちは、深い所まで自分を掘って掘って掘り進んで行ってもう行けない所まで何度も、自分を改めて、その地点からもう一度見るので自分に置き換えて考えることができる。

春の嵐」は、音楽の物語だった。
自分も、過去読む以上に好きになって取り憑かれるようになっていたのは音楽だったから、音楽がテーマになっているのは目で読んでいても聴こえてくるようで心地良い。
と言っても、ただ心地良いだけの小説ではなくて、主人公クーンは少年の頃の恋をきっかけに、そりの事故に遭い、足を負傷する。彼が、その後、ひたすら、自分の中で考え、悩み、苦悩しながらも歩み続けたのは、そのことがあって、静かに、考えざるを得なかった時間が、あったからだと思った。彼は、それまでは多少緩んでいた音楽への志を、もう一度固く決心して、歩み始める。そして彼は出会う、ムオトという、情熱的で、けれど破滅的でもあるオペラ歌手と。ふたりは、お互いに無いものを求め合うように惹かれ合って、無二の友になり、また、そこに、ゲルトルートという女性があらわれる、いつだって沈思してある意味では自分を表には出さないクーンと、またクーンとは正反対に、一瞬いっしゅんを感覚で生きているムオトとの間に。

どの登場人物の中にも自分がいた。
考えることに重きを置きすぎて、動けなくなるクーン。何事にも満足を知らないムオト。危険なほうにどうにも惹かれていくゲルトルート。陽気なタイザー。ローエ先生の信ずる心。仕切りたがり屋のクーンの母のいとこ。などなど……。昔は、この登場人物みたいだったなあとか、逆に今は、こんな所あるなあとか。と、考えてみると、自分、なんてのはどんどん変化してきたのにも関わらず、今、とある一面が目立っているように(自分からは)見えていたからと言って、まるでそれだけが全てであったような、ほかの面は元から無かったかのような気になるのだから改めて、何も見えてないなあ。

青年と老年の違いが書かれていて、何度も読んだ。青年は、利己的で、老年は、他人の為に。自分は、と書いている時点でもう、自分の話ばっかり、まだまだやなあ。でも、だからと言ってどの地点をも作者はいつも否定しなくて、自然にも、動物にも、それから一番は人のあらゆる面にも、あたたかい眼差しが溢れていて、綺麗事ではない、いつも、外、の批判でなく内に向かって対話しながら、様々な苦難を味わった上での作者の孤独の深淵からの美しさに、情景が浮かんでくる文章に、今回もたくさん考えながら、読んでしまっていた。先日読み終えた「荒野のおおかみ」も、わたしには同じく、内、に向かっての闘いの記録に思えたし、だから読んでいてひたすら面白かったのだし、というのは、愉快で面白かった、とかでなくこれもまた深くまで潜っていけた所が。何回言うねん。また読み返さないとなあ。
クーンが、音楽によって永遠を見ていたように、肉体、というのに終わりはあっても、
作品は、生き続けるのだな、と、言葉にすれば当然のようだけど改めて、じっくり、思えた。
解説も興味深く読んだ。翻訳者の方が、ヘッセの自宅を訪問された時の記録だった。

読んでも読み終わった感がないので、また開いて、戻って行きたいと思う。