yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

「時の旅人」著者Uttley Alison

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

「あの日と今とが繋がって」

2020.06.25

 


「時の旅人」は児童書のコーナーで見つけましたが、数日間むちゅうで読んでいた長編の物語でした。


 
「時の旅人」という名のとおり、主人公のペネロピーが過去と今とを行き来する話なのですが、読んでいるわたし自身もその間は時の旅人でした。

というのも、ペネロピーの見ていたのをわたしもうしろから見ていたからです。

なんて読者だから書かれているのを追うのは当然かもしれないけど、物語でペネロピーには過去の住人が見えているにもかかわらず、過去の住人からはペネロピーが見えていないことがなんどかあったので、そのときのような心細いようなでも胸がとくとく鳴る感じで読んでしまっていました。

あまりからだが丈夫でなかったペネロピーはあるとき田舎のおばさんの元へ、静養も兼ねて兄弟とともに向かうのですが、その場所の農場の描かれ方が心地良くて。

ものすごく田舎に住んでいるわけではないのでふだんの生活ではわたしは、鼻の奥までツンと突き抜けていくような澄んだ空気はなかなか味わうことはできませんが、ペネロピーたちが都会からやってきた日のはじめての呼吸、またそれから川のきらめきや小鳥のさえずりなどが伝わってくるように生き生きと描かれていたので、やさしく出迎えてくれたおじさんの笑顔もおばさんの体温もいっしょになって今と繋がったような気がしました。

そして到着してからも。
ひとつひとつのドアを開けてゆくのが、台所を覗くのが楽しみになるような匂いも肌触りも身近に感じられるような、ペネロピーの高揚があって、とはいえ身近といっても知らないことが多かったのですがそこも含めてたのしく読みました。

たとえばハーブがたくさん出てきます。何種類ものハーブが生活のあちこちで使われていて、各部屋で違う香りを想像して、またなんといっても食べ物がおいしそうでたまらない。料理というよりも食べ物の描かれ方が、新鮮な牛乳がチーズが、焼きたてのパンが……。

その家や周辺のものはおばさんいわく大昔からあって、歴史があって、誰の物だったかわからないような小物なども未だつかわれていたので、空想家のペネロピー想像をふくらませて羽ばたいてついにずうっとむかしへと、ドアをひらいて旅立ってしまって、はじめは何が何だかわからなくてしょんぼりしていたけれども、その場所の人たちとも心通わせていく。

そしてその場所で歴史上の出来事にも巻き込まれて色々なことを目にし、と思えば呼ばれて今へと戻ってと思えば再びあの場所へと。過去も今も曖昧になってゆくペネロピーの姿をわたしも覗いていてこの感覚は本を読んでいるときに似ていると思いました。一度で読み終わる日もあればそうでないときもあり、ちびちび読む時期は生活の隙間に登場人物たちがちらちら挟まれるから、風呂入ってぼんやりして思い出して、などするからそしてまた会うなどするから時々結構すごく近いので不思議です。

ふたつの間を行ったり来たりするペネロピーは自問して特に時間について考える場面が多いのですが、

読みながらわたしは今年ヘルマン・ヘッセをかじりついて読んでいたことを思い出していました。

ヘッセは今年に入って次々と読んだのですが今もまだ強く太く心に残っていてほんとうに読めて良かったと思っているしたくさん自分に問いかけることができた、そしてその中でも時間について書かれていたからです。川になぞらえて。めちゃくちゃハッとしてそうだよなあ、「過去」とかいう言葉があるだけで過去でだって今だったのだし未来なんていっても、その今「未来」と呼んでるのにたどり着いても感じるのは今だから、リレーのように走ってゼロからゴールに向かっているのでなくぜんぶでひとつの、ぐるぐるめぐる川であって泉であって、ヘッセの時なんか考え過ぎて回転寿司までそのことに思えてきたから大変マグロひとつ取るも取らないも運命に思えた、重症、そのときも今日もなんだかとても頼もしい気持ちになったのでした。この本もそうだなあって。作者が書かれたものが今になって届いてるけど、いつだって書かれたのも読んでるのも今でつぎに誰かがおなじのを読むのも、そのときは今。まったくこの世はどうなってるのか。不思議がいっぱいや。

からの話は飛ぶけれどわたし自身もずっとむかしのとある日のことを思い出していました。

というのは子どものころよくお墓へ遊びに行っていたのですが、そのお墓の場所は教会の敷地内で住宅地からは離れており、小川や花があって景色がとてもきれいでした。だから遊んでいる最中は怖くありませんでした。それでわたしは年の近い子と来ていてその日だけはノリでお祈りしとこかー、みたいな空気になって、目の前のお墓にだけお祈りしたのですが、すると横のお墓にもそのまた横のお墓にも、うえの段にもしたの段にも、なんかこうお祈りしとかなあかんのちゃうか、みたいな気持ちになってきて話しかけたりお辞儀したりなど夏の暑い日だったので疲労困憊、ほとんど倒れそうになりながらすべてのお墓に立って「これからもよろしくお願いします」「ありがとうございます」とか訳分からないことをいいまくっていっしょに来ていた子とむちゃくちゃ神秘的な気分に勝手になっていた、それこそ今というのは「いた人たち」ともものすごく関係しているのだと、興奮していた小学生の夏休み! のことを読んだことで頭に呼び戻していました。

って話飛び過ぎ悪い癖、

まえがきにありましたがこの物語の多くを作者は、自身の幼いころの夢を元に書いたそうです。夢で見た夢も含めて。ああこの物語を子どものころに読みたかったなあとわたしは、過去なんて言葉だと思ったそばから強くつよく思ったのでした。

そして読み終えてから余韻に浸りながら物語の時間もじぶんの時間も夢もごっちゃになりながらまじりあっているのもやっぱり今なんだよなあとか思っているのでした。