yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

ロジェ・マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々 11(一九一四年夏 4)」

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

チボー家の人々」 11

2020.12.21

 

 

 

十巻にてここ最近は、静かに読んでいるとか書いたのだれや。十一巻ぶっ通しで読んだやないか、しんど。

 

読み終わってからなんか、ジャックに対して、どんなふうな言葉を持ってるかわからん。じぶんが。つらい、ともちがうかなしい、ともちがう、いや確かにつらいもかなしいもあるけどそんな一言ではおさまらない……
あえて言ったらばジャック、どこへ行ってしまったんやろ。
あんなにだれよりも物事をみつめて、生きること、死んでゆくことをみつめていたジャックは、いったい、ほんとうにどこへ行って? もういないの? そんなに簡単に、あんなにも心に多くをつめこんでいたひとが、ひとりの人間であるジャック・チボーがいなくなることが、わからない。いや、もちろんあんなことがあって、からだが負傷して、この世からいなくなる、それはわかる、そのことはわかる、でも。わからん。それで、いったいジャックは、ジャックという名前をもったいつも不器用で誰よりも何事も「みていた」、たとえ時にはきれい事と捉えられようとも、事実そうだったこともあったかもだけれどもあのジャック・チボー、ダニエルとの恋にも似た友情、そのあとの諦めと反抗と、それからジェンニーとの魂の会話と……はたからみたら一歩も動いていないような日々も、ジャックにとっては「ほんとう」だったのに、「ほんもの」をいつだって探していたのに、どんどん周りが諦めていこうとも、見せかけだけの平和主義もいたけれど、それでもずっと最近はジャックが居たのに、読んでる側の生活にも(だから言葉は生きているんだけど)、

それでもやっぱりジャックが最後のページにて、いっしゅんで「なくなって」しまったこと、そのことが、亡くなってではなくほんまに無くなってしまったことがどんな本にも等しく「読むまえ」はあるけどもう戻れんな、とおもった。過程を追ってきたからこそ。