yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

チャールズ・ディケンズ「デイヴィッド・コパフィールド②」

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

「人生という航海で出会う人々」

2021.03.18


「デイヴィッド・コパフィールド」二巻を読み終えた。

勝手な想像だけれども、作者は、創作とはいえ、この自伝的要素の濃いらしい作品の中で出会った人々のことを――もちろん想像上での出会い含め、時に逆境の中で、時に変化の荒波の中で、人々がどんなふうに笑い、悲しみ、生きたか、ということを少しでも愛とユーモアをもって書き留めておきたかったのではないかなあ、と感じた。

話は飛ぶが小説は歌のようだ、と感じる。
綺麗に中央で山を描く、ジェットコースターのような作品。
対してそのような波はないけれど、淡々と書かれる中にハッとする一文があるものや、はたまた限界まで言葉がそぎ落とされたものや、それらもまたひとつの音を奏でているように感じるし、短編の瞬発力、長編での時の流れ、現実を写す、現実から離れ飛び越える、その狭間、人物描写に重点を置いていたり、読者自身に雰囲気から「書かれていない」ことを読ませる作品だったり、メッセージ性の強いもの、「意味」からは遠のいたり……本当に様々メロディーはあるなあ、と。

それでこの最近読んでいる「デイヴィッド・コパフィールド」でいうと、やはり作品に流れる眼差しを思う。
というのもまだ二巻までしか読んでいないけれど、なんど「私は、この日の出来事を今でもありありと思い出すことができる!」とか「忘れられないだろう!」とか「~を見るたびあの日のことを思い出すのである」とか「あれほど~だったことはなかった!」などという文章が出てきただろう。
一巻の解説でも触れられていたけれど、そっくりそのままの文章ではないが、書かれた頃は小説は娯楽として、楽しむものである傾向が強かった。なので、上にも書いたように小説とは読むにつれ色々あるのだなあ、と何度も驚く日々だけれども、その意味でいうとこの作品は静かなメロディーではないけれど、読みながら笑いやユーモアを持って「見る」ことはいいなと、そんなシンプルなことを思う。

そうはいったところでなにも楽しいことだけが書かれるのではない。あらすじにすれば、主人公デイヴィッドは父を失い、母を失い、そのまえに母が再婚した男は冷酷で、彼に虐待をする。そこのところは読んでいて辛い。苦しい日々が続く。が、その家を出てからのことも書かれる。出てからも、寝るところがなくて野宿をしたり、来ている服を脱いで古着屋に持って行ったり……その場面ではその古着屋の店員の特徴が、口癖が、事細かに書かれるのだった。
また、暴力教師のいる学校では、生徒たちはぶたれてばかりいて、その期間に出会った友人はそこを出てからもデイヴィッドにとって大きな影響を与える。みんなで寝ていた部屋にてデイヴィッドは昔、こっそり読んでいた物語を話して聞かせた。覚えているものに、更に想像を足して。
それから途中で出会う船に住んでいる家族。
この船の家の描かれ方は、映像作品になっているか、観たことはないけれど、観てみたいなあとワクワクする。
それから一巻にて大好きになったデイヴィッドの叔母。風変わりで、破天荒で、けれどデイヴィッドのことを一番に思っている。言いたいことはズバズバ言い、誰かが家の敷地を踏もうものなら飛び出して行く、それで思い出すけれどこの叔母ではないが話すたびボタンがはじけ飛んだり、叔母と暮らしている凧揚げが好きで、いつまでも完成することのない自伝? を書いている人物など、その凧揚げをしながら子どものように空を見上げるシーンなどなんだかじーんとくるものがあるのだった。

 

一番好きだったシーンは、なんども破産してしまう夫婦がいるのだけれど、この夫婦、もうなんどもどん底からの立ち上がってきて、絶望して、かと思えば五分後にはケロッと切り替えていたりですごいインパクト。

 

それから今後一番気になるのはスティアフォースという登場人物が今後、どうなっていくのかということ。彼は学校でも憧れの的でいつも明るくいつも気の利いたことを言っていた。
が、たびたび彼には影が見え隠れするのだった。私は彼が心配だ。(誰)

なんてふうに、登場人物たちによって物語は色付いて、
二巻、終わりではある登場人物が亡くなってしまうのだけれど、最期の言葉が、その「たった一言」がきっかけで生まれたドラマもあって……。そんな二人が出会ったばかりの頃の「たった一言」を思い返すと堪らない。

三巻もゆっくり読みつつ頑張ろう。