yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

日本文学全集 07(枕草子)「方丈記」

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

方丈記

2018.04.28

 

方丈記を手に取ったのは、綿矢りささんのインストールを再読したところ単行本に無い作品も読みたくなったので文庫本も購入、に書かれていた高橋源一郎さんの解説にとても感動、からの小説、からのおもろい、からのあらま方丈記の現代語訳もされていらっしゃるのね、という流れだったので、正直、方丈記ってなんやったかなあ~という感じだった。

学生のころはまるで勉強ができなかった。というかやらなかった。古文の時間はほとんど寝ていたし、行く川のながれは絶えずして、という出だしはなんとなく記憶にあるけれど、私には何かの呪文のようなお経のようなものにしか聞こえなかったので、またまた寝るか化粧を塗りたくるかのどちらかだった。

だから今回私は驚いた(この人また言うてるで!)、方丈記すごい、これって気が遠くなるほど昔のものなのに今とさほど変わらんことも書かれてあるやないかあー、と。

なんてことを書いたらそんなこと今知ったのですかあなたって何をしていらっしゃったのですかおかめ納豆のような顔をして、と言われてしまいそうなのだけれどはい、正直申しまして今、ついさっき知りました。

とどうでもいい話は置いておいて。高橋源一郎さんの「方丈記」、めっちゃおもしろかった。人間はなんと同じことを繰り返す生き物なのやろうと思った。

話は脱線するけれど、私はいつも先人の作品を読んでいると、その出来事っていったいいつのことなのか、結局のところあなたはいつごろ生きていらっしゃったのでしょうか、と混乱することが多い(ていうかいつも)。

それというのも話は戻るけれど、要は私が授業中に白目をむいていたことや、時代の流れを分かっていないことや興味のないものには目もくれない、ということもあって、なんていうか一人ひとりを知ろうとすることはできるのだけれど、それらが線になって繋がらないのである。だから、別に賢くなりたいというわけではないけれど(手遅れ)、もっと面白く本が読めたらいいなあ、と思っていたのだった。

そこで私は模造紙を買ってきて、日本と海外とを分けた二本の線を引き(西暦が分かるようにして)、作家の名前を書いた付箋を適当にべたべたと貼っていってみることにした。横には出来事も書いた。

するってえとこれはどうだ。誰と誰が同い年で交流があって、その時代に何があったのかということが分かるではないか。また、同じ時代に生きていてもこの人はおそろしく短命だったのだなあとかもういろんなことが分かるではないか。

お。も。ろ。い。

ずっと昔の作品だと勘違いしていたものがそうでもなかったり、またその反対であったりもしてしつこめにおもろくて。私は、近ごろ、興奮のゾーンに入っています。

で。また話が脱線したのだけれど。方丈記には人生の無常さがどうしようもなく書かれてあった。人生なんてものは確かにあるように思っても絶えず消えていって、どれだけお金を持っていようと同じこと。前触れもなくやってくる災害はあっというまに築き上げていったものを持って行ってしまうし、そのたんびに人は人生を振り返るけれども時が経てば忘れてしまう。

かものちょうめいさん、かかものながあきらさんどっちが正しい名前なのか分からないけれどもかものさん、今ここにある地球も世界も日本も京都市も、住まうひとびとみんな何も変わっておりません。まだ人生とはなんぞやとか言ってます。

私は面白くなって、高橋源一郎さんのもの(それにしても猿丸太夫のくだり笑った)を読んでから神田秀夫さんという方が訳されたものも読んでみたのだけれど、どちらもよかったなあ。そのあとの原文はやっぱりまだまだ分からなかったけれど(ということは、私が現時点で実感できたのはあくまで現代語訳の方丈記なのだなあ、ということもあらためて)。

そんなわけで。何を書いているのか自分でも分からなくなったけれど。昔のものを読んでいると、自分がおそろしく小さく思えるから。気が抜けたように楽、になれました。以上、阿保丸出しですみませんでした。