*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「くよくよする自分とどうすればお友達になれるのか」
2017.02.22
先日、津村記久子さんの小説「ワーカーズ・ダイジェスト」を読んだ。
ふたりの人生が交互に語られるが、一見交わりそうにない人生は “やるせない日々をなんとか生きようと“もがく” 点で似ていた。
同僚の攻撃的なもの言い、理不尽な抗議電話、何度直しても戻ってくる仕事。
日々を必死に生きる人間からすれば、ぬかるんだ地に足をとらわれていったいどこへつぎの一歩を踏みだせばいいかわからなくなる。
なにか劇的な展開や、こころを打ちひしがれるような結末が待っているのではない。
けれどたんたんと過ぎていく物語を追いながら、ふつうに働くというだけのことがどれほど大変か、あらためて思った。
日常に映画のような出来事は起こらない。
ちいさくて、目には見えなくて、けれど、こころを消費するには十分なものの積みかさねで過ぎていく。
だからか、これは自分自身の物語だと、錯覚を起こしてしまいそうだった。
この一冊の小説によってほかの作品にも興味をもち「くよくよマネジメント」というエッセイを手にとった。
タイトルだけを見ると、エッセイより啓発に近い雰囲気を感じたが、体験記のような感じで読み終わってみるとわいてきたのはほんのすこし、自分を許してあげられるような気持ち。
印象的だった箇所、主に三つを挙げると。
「趣味はわたしだけのもの」という章にて書かれていた楽しいと思うのなら、対象はなんだっていいではないかというもの。
それは「人の評価を気にしすぎると息苦しくなる」ということでもある。
たしかに小さいころは純粋に楽しい、という理由で取り組んでいたように思う。
そこに「こんなふうに見られたい」という意識は少なかったし、大前提に、いつも好奇心があった。
趣味は小さくてもいい。それを誰かに話す義務もないし、必ずしも評価を求める必要もない。
というのを読んで自分の「楽しい」をもう少し信じようと思った。
ふたつめに「衝動と願望の区別」という章。
日常の欲には「すぐに~がしたい」という衝動と「いつかじっくり取り組みたい」という願望の二種類があって、前者には飛びついてしまうものの、後者は忘れがちになってしまう、ということが書かれていた。
その例に著者はインターネットの検索を挙げられていたが、これにはおおいに納得……いや納得を通りこして反省、なにかを知りたいときにはボタンひとつで調べられてしまう世の中だけれど、あまりの情報量の多さにオロオロしてしまうことも少なくない、けれどそうしているのはいつだって自分自身なのだった。
わからない言葉はネットではなく辞書をひく。
ということを心がけるようになったのは最近のことで、そういった行動面だけでなく「衝動」も客観的に見極める必要があるなあと思うことができた。
最後は「自分という子どもとの付き合い方」という章。
タイトルでドキッとするのは誰しもこころのなかに少なからず子どもを抱えて生きているからだろう。
そういった自覚的なものから潜在的なものまで、いくら年を重ねても過去を消し去ることはできなくて。
もちろん追い出さなければならないわけではなく、書かれていたように大切なのは「仲良くしてあげること」だともう一度痛感したような気がする。
そのほか「いま自分がくよくよしている主な事柄を紙に書いてみるといい」と書かれてあったのであらためて向き合ってみると、なんだか人目ばかり気にしていて。
世間でいいとされている実態のないものに嫌悪感を抱きつつも、知らず知らずのうちに誰かの目線で評価していたかもしれない。
これだけ情報が多い世の中でどうすれば自分とより仲良くなれるか、そんな当然のようでそうでないことを考えていきたいなと思う。
また会話のなかで比べられているような気がするときは(本書ではジャッジと書かれてあって納得)逃げてもいい、そんな言葉にも救われた。
たびたび襲ってくる根拠のない孤独とやらも、たったひとりの、けれど死ぬまで向き合わなくてはならない自分自身という聞き手を忘れなければ、覚悟を持てば、ほんの少し和らいでくるかもしれないと思った。