*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「拝啓ファッション雑誌様」
2017.12.09
近頃はSNSが主流になって、わざわざ紙の雑誌を購入しなくともファッションもメイクも更には私生活……例えばきょうの晩ご飯はさくっとこんな感じでとか、忙しい毎日のなかにもささやかだけれど大事にしていることとか、心境までちらっとみえて、凄いことだなあと思う。
そのさくっと具合になんの躊躇もなくのっかりまくっている私に言えることなんて何もないのだけれど、たった十年前には当たり前のように山積みにされていた雑誌が休刊する。というニュースをみるたびに、私は画面をスクロールしながら、スクロールしている自分とページを隅から隅までそれはもう穴の開くほどみつめていた自分とを思って、複雑な気持ちになることがある。
もうあの頃は過ぎ去ってしまったのだなあと思う。
中学生の頃、私含め多くの友人にとってセブンティーンという雑誌は神だった。
購入したら、毎月の小遣いはほとんど残らなかったけど、それでもセブンティーンだけは買わずに生きていかれるかよといった切実な思いがあって、洗練された姿はもちろんのこと、字体(字体を練習する付録が当時あった)から考え方から、もちろんあくまでも想像なのだけど、どんなふうに変わったり変わらなかったりしていくのかということまでもが、大切だった。
そして、よく友人たちで語らっていた。
この写真がお気に入り。
これプリクラ帳に貼ろ。
次の表紙は誰やろう。などなど。
あの頃は、似合っていないということはオール無視を決めこんで、美容室へと駆け込み、元々ド直毛である髪に更に矯正を当てて定規のようにしたり、かとおもえば先生に
「おまえ天ぷらでも食ったんか」
と怪しげな目でみられるほどグロスを塗りこんだりして、はたから見れば理解不能であっても、そんな馬鹿げたことが全てだった。
高校生になると、あら、もうセブンティーンなんてわたくしは卒業しましたのよ。とばかりにもう少し大人の、当時はギャル読者モデル大流行爆発の時代であったので、私たちは一気に怪しげなライオンのようになった。
しかし、だからといって目の周りをどこまでが目であるのか判別できぬほど塗りたくっていても、セブンティーンは卒業したのだとしても、憧れであることに変わりはなかったし、一方的な思いだったにも関わらずとても親しみを感じていたのだった。
中学時代のセブンティーン。
高校時代のポップティーン。
ブレンダ、ビビ、ピンキー、キャンキャン。
あの頃の自分を思うとき、時に目も当てられないようなファッションやメイクをしていたこともあったけれど、あの頃はあの頃でみんな戦っていたのだとも思う。
今、SNSを開くと彼女たちは当然ながら歳を重ねていて、子を産んだり、ナチュラルメイクになっていたり、手料理を載せていたりする。
月日はそれぞれの人生に変化をもたらして、見るたびにやっぱり私は、どうしようもなく、時間が経ってしまったことを痛感してしまう。
でも、一方で全く変わっていないなあと思うこともある。
久しぶりに再会した友人の外見が変化していても、時間の経過など感じず打ち解けることがあるように、一ページ一ページ、夢中で彼女たちを追っていたからなのかもしれない。
拝啓ファッション雑誌様。私は、毎日雑誌のページをめくるのが支えだった。
だから、綺麗事のようになってしまうけれど、
雑誌が、本という形が、文字が写真が良い方向に行けたら良いなあ(もちろん、昔のほうが良かったという意味ではなくて)。
手に取ると、頭の横をあの頃の景色が通り過ぎる。
それで書いておきたくなった “私たちだった” 頃の、二度と戻らないけれど、忘れられない思い出。