夏の終わりってなぜこうも切なくなるのかふしぎでならないのですが(森山直太朗のせいか!?)、でもよく考えてみればわたしは今年34歳なのですが、人生においてまだ夏を34回しか体験していないことに驚いてしまうのでした。
加えて子どもの頃の記憶ってもう薄れているから、はじめのほうの夏の記憶なんて自動的に消去されてしまう。
せいぜい思い出せるのは夏休みのとある一日とかで、夏休みの毎日をすべて朝から晩まで覚えていることなんてないのだった。
でもその日々を過ごしたのは絶対的事実なのに。
そう思ったら今年も夏がきたか、なんて当然のように言っているけれどまだ34回目。「もう」34回目とはなぜか思えないこれもまた感覚のふしぎ。
人生例えば80年生きるとして、夏を80回。
それでも80回かあ、と2289回なら夏を分かったぜ!なんて言えるのかもしれないけれど、それで言うと春の「桜」、しかしわたしは桜よりも紅葉に毎年しんみりしてしまう。あのグラデーション、いっしゅんで終わってしまう色鉛筆をひっくりかえした絨毯、夏のつぎはもちろん秋でその秋も34回目かあ。
時間ってなんなのだろうなあ。
なんて言い出すと止まらないから終わり。
ちなみに「夏といえば……」
出てくる言葉は人の数だけあるだろうけど、わたしにとっては「大文字」。
京都の養護施設で育ったのですが、その施設が大文字山の下にあったのです。
あまりに近いから施設から見ても山火事というか、いやそれは言い過ぎたけれども「大」はすぐそばにあるのに見えず、あえて離れて行って近くの教会のガレージで見ていた夏の終わりを思い出します。
施設の坂を消防車がのぼってきて(念のため消火できるように)運動場に停められて、それから松明を持った人々がゆっくり歩いてくる。その光景をはしゃぐでもなくぼんやり見ていたこと。大文字って、決してイェーイ!夏だぜ!な雰囲気でなくおごそかに進んでいって、あの静けさが夏の終わりの切なさを今なお更に加速させているのかもしれません。
実家があるわけではないので地元にはずっと帰っていないのですが、大文字、ひさしぶりにきっといつか、見たいなあ。