*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「状態をみつめて書くということ」
2019.08.06
「私の名前はルーシー・バートン」、それから姉妹編の「何があってもおかしくない」を再読したら「オリーヴ・キタリッジの生活」も無性に読み返したくなった。
読み返す、というのはおもしろいもので以前とはまた違った感情が湧き出てくる。
今回は作者の書く姿勢というか、容赦のなさのようなものにつくづく感じ入ってしまった。
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というのも、状態をみつめて、ただ書く、というのは容易ではないと思うからだ。辛かった、と書けば片付くものを、その状態、起きてしまったこと心の動きをていねいに書く。だれかひとりの人物に肩入れするのではなく、冷静に、ワンシーンとして書かれてあるからこそ、一人ひとりに思いを馳せてしまうのだろうし、読者自身も思わず過去を振り返ってしまうのだろう。
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そしてドラマ版のほうも、映像がきれいで素晴らしかった。
オリーヴのどうしようもないところも、孤独もやっぱりどうしようもなく自分のこととして知っているなあ。そしてときおり俳優らがみせる笑顔、にも至っていない一瞬で消えてしまうやすらぎの始まりのような表情が良い。
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生きているとままならないことだらけで、だれかがいなくなったり傷つけてしまったりでなんでじぶんはこんなふうにしか生きられないんだろうと数秒に一回ぐらい思う。それでももう時間は戻らなくて、じゃあどうするのかというと「どうしようもない」、ということも少なくないのだと、ぴたんと寄り添ってくれる物語で。
「私の名前はルーシー・バートン」の帯のことば、
“人生は進む。進まなくなるまで進む。”
というのが染みる。だいすきなことばだ。「オリーヴ・キタリッジの生活」、の世界観にもそのままいえることばだと思う。
それは決して「諦め」というのではない。ままならないものたちを抱えたまま、それでも生きているオリーヴたちに静かに、けれどずっしりと、力をもらえるのである――明日もまあなんとか、生きてみようかなあ、と。