*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。
「わたしが小説からもらったもの(1)」
2019.07.21
お題「本で、誰も、ひとりにさせない」
わたしが小説からもらったものについて、書こうとおもう。
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というのも、お題は、
「本で、誰も、ひとりにさせない」
なのだが、わたしは、読む、という行為はものすごくとじられた、個人的な行為だと思っていて、実際に、じぶんで選んだときでさえ(あ、これは、いまではなかったな)、とかもっとまえに読みたかったな、とかおもうときもあるので、そのときの体調や、重視するものや文体、などしっくりくるものは、その本の良し悪し関係なく(もちろん好みの問題というのもある)、時期もふくめてそれぞれ違う、とおもうからだ。
また、それ以前に
本を読むまでの気もちがない、ということもある。
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実際、わたしも本からとおざかっていた時期があるし、逃げ場所、としてたすけられたこともあるが、やっぱり、環境にも気もちにも余裕がないと、それどころではない。
お金がないと買えないし、図書館に行く時間がいるし、行きたい気もちがいる。もっというと図書館の存在を、ことば通りの意味ではなくどんな場所であるのかを “知っている” 必要があるのだ。
というのは決して、当たりまえのことではないとわたしはおもっている。
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それから、本が多様な景色をみせてくれるように、
しんどさの中にも種類はあるし、わたしは本に救われた経験は多いが、それが海外ドラマの日もあれば、コスメの日もあり、対象が何であっても、寄りかかるお陰で救われることはある。
だから、もちろん本がすべてではないし、何にもできないときは自戒をこめて、堂々と休む、目をとじて休んだるわぐらいの気もちで良いのだと、これもじぶんに言い聞かせながら強く、思っています。
なので、以下は
わたしが、小説からもらったものについて。
気軽に読んでいただけたらと思う。
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ひとりではないな、と本を読んでいておもったこと。
はある。たくさんある。
もちろん、読んだからといってひとりがふたりになるわけではないし――ぱたん、と閉じても景色は変わらず「今ここ」があるだけ。
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であるならば、
わたしがひとりではないな、とおもえるのはどんな瞬間なのか?
考えてみると、
やっぱり、これはほんとうのことだなあというか、たとえフィクションであっても、つくりものだと分かっていても、物語のなかだけでは嘘がないな、と信じられる――まるで子どもに戻ったように――興奮できる瞬間なのかなとおもう。
生まれてきた以上、どんな状況であってもひとは「ひとり」だし、言葉を交わそうが、やはり意識は個人のもの。選択も、かなしみも、もちろん喜びも内側で対話していくしかない。どれだけ本を読もうともそのこと自体は変わらない。
のだけれど、
まれにばちこーんとやられる本というのがあって、わたしにとってはそれは小説なのだが、ひとりであることと、ひとりきり、とは同一とは限らないのだとか、孤独、のさらに奥にも景色があるのだとか、おもえて、宝物にしよう、と抱きしめたくなるような出会いがときおり、あるのだった。
というわけで、
今回じっくり読み返したのはこの二冊。どちらもエリザベス・ストラウトの作品で、まずは「私の名前はルーシー・バートン」。
「私の名前はルーシー・バートン」著者: エリザベス ストラウト
タイトルにもなっているルーシー、というのは主人公の名前で、盲腸の手術で入院することになったルーシーのもとへ、長年会っていなかった母がとつぜん、見舞いに訪れる、というストーリー。
省略してしまえばそれだけではある。だが読んでいるとルーシーや、母の過去が痛いほどつたわってきて読み進めたくない、この世界にいつまでも浸っていたいし言葉のやさしさに触れていたい、なんて大真面目におもってしまう。
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家族は、十一歳になるまでガレージで暮らしていた。となりで暮らしていた大叔父が亡くなってからは、移って暮らせるようにはなったが、まわりに家は少なく、あんたら、くさい、と言われたりした。
要は、ルーシーの家はなかなかの貧困家庭だった。安値で縫い物をしていた母。戦争があって、農機の修理工だった父は傷を抱えていて。
これは、そんな過去を持ったルーシーが大人になって、作家になって母が来てくれたことを時を経てから、書いた小説でもあるのだった。
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たいせつなのは、貧困や、戦争の傷、トラウマなどが扱われているからといって、この作品が、悲劇のみを殊更に扱っているのでは決してないということ。
むしろ、読者はルーシーの回想から、母との他愛ない会話からちいさくて些細な、ひかりの玉のようなものを感じとることができる。
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二冊目は姉妹編にあたる、「何があってもおかしくない」。
「何があってもおかしくない」著者: エリザベス・ストラウト
主に、母と娘にあたっていたスポットが、「何があってもおかしくない」ではルーシーらをみてきたひと、またその周囲という具合によりとおいレンズから、それぞれの物語を読むことができる。
学校で、ルーシーを気にかけていた用務員のトミーだったり、それから、ルーシーの兄も、姉もみんないろいろあった。もれなく、一人ひとりに物語があったのだというのが痛いほど伝わってきて。
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読み返し、あらためておもうのは、いろいろあった、のおもてだけをみれば、たとえば、ルーシーがトラウマにより、子どもの泣き声をきいて地下鉄をおりてしまったことがあるように、はっきりいってちいさな光の玉どころではない。
でも、みんな生きてきた。
時間を、過去に、見送ってきたのだ。
というのをルーシーが後に書いている、のを作者が描いている。
つまり、ルーシーの記憶は、まったくその通りでないこともあるかもしれないし色付けされているかもしれない、都合良く、切り捨てられたこともあるのかもしれない、
だが、それがなんだろうともおもう。
だれかから、かなしい、とされていることが必ずしもじぶんの、それと一致するわけでもない。ちいさくて、みえなくて根拠のない、いまさら確かめようのない光であっても、あった、たしかにあったと思えるならばそれはかけがえのない、じぶんだけの支えなのだとおもう。
そして、わたしがこの小説に惹かれたのは様々な、光景がだぶった、というのもあるけれども、でもそれだけが今のわたしをつくっているのではないし、あくまでも一部であって、バックボーンに関しての気持ちはわたしが、わたし自身が決めていいのだと、たとえ “かなしい” がそのままのかなしいで残っていようとも、それをだれかにジャッジさせる必要はないし、わざわざへりくだって卑下することもない――むかしは、わたしはそうすることでしかじぶんを表現できなかった。
また、かなしいのなかに朧げにでも、頼りなくとも数秒の、きらめきのような記憶があるならば。
ルーシーに力をもらったように、わたしも、大切に、たいせつに覚えていようとおもう。
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ほかにも、だいすきな「オリーヴ・キタリッジの生活」など、作者の作品にはいつも、繊細で人間らしい愛すべき登場人物たちが出てくる。
「オリーヴ・キタリッジの生活」著者: エリザベス・ストラウト
読み返すたびに色が変わる。
「嘘のない文章」、というのが作品にも出てきたように、 “人をみている” 小説には力があるな、とおもう。
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生きてきた以上、どうしたって、だれにだって過去はあるけれど――今だって過去になるけれど。
言葉が、それぞれの何かが、巡りめぐって、わたしを、だれかを強くしてくれる。
というのはほんとうに、すてきだな、感謝すべき時間だなとおもうのだった。