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「一日だけで良いから、あの頃に戻って先生の布団のなかで眠りたい」コンクール応募作品コラム

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

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☆こちらはコンクール応募作品になります。

 コンクールの概要↓

 

『#ぼくいこ』コラム募集

 

母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。
著者: 宮川 サトシ


【このお題について】宮川サトシの大人気エッセイ漫画が映画化! この機会を大切に、シミルボンへ想いをこぼしてみませんか?

 

(映画化を機会に、大切な人への想いを綴ってみませんか?といったものでした)

 

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「一日だけで良いから、あの頃に戻って先生の布団のなかで眠りたい」

2019.02.19

 

送られてくるメールがつっこみどころ満載な「母」。トヨエツが好きで、「僕」の話を飽きることなく聞いてくれて、頂きものの苺を大喜びしてくれて。

母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」を風呂のなかで読みながら、私は数々の「母」との思い出に、素直に感動していた。「東京タワー オカンとボクと 時々 オトン」のドラマで吐くほど泣いたのを思い出した。

「僕」と共に過ごしたたったひとりの「母」
だからこそ、読んだ私も感傷的になったんだろうな。手に取って良かった。死は誰にでも平等に訪れるものだけど、やっぱりそれでも人が人を想うきらめきのようなものを、生きている限りは信じていたい。

手に取ったときは、今回のコラム大賞に応募するつもりはなかった。
なぜかというと、この本のように私にも、思い浮かべてしまう大切な人がひとりいるのだが、私は実際には、その人を失ったわけではないから。
会いに行けば顔を見て話すことができるし、思いっきり抱きしめてもらうこともできる。

つまり、私は、この作品の「僕」のようにはその人を失っていない。
だから、書いてはいけないような気がしていた。
でも。

読み終えてみると、私は先生のことで頭がいっぱいになっていた。
書いておきたいと思った(長くなりすぎて大真面目にごめんなさい)。

先生との一番古い思い出は、私が入所した日のことだ。
私は六歳だった。暑い夏の日で、とおく伸びている坂道の先に、灰色の鉄筋コンクリートの建物があった。
出迎えられた私は、差し出されたサイズの合っていないスリッパに足を通して、恐る恐る奥へと進んでいった。

ひとまずは持ってきた私物を整理することになった。
言われたとおり、早くあの箪笥へ服を入れなければ。
けれど私はいつまでたってもモジモジしていた。目の前の山をどかしたら、婦人用のどでかい下着が出てくるのに気付いていたから。
洗濯物をそのまま持ってきたら紛れ込んでいたのだ。
どうしよう。っていうかなんでこんなベージュのパンツやらブラジャーやら入ってんの。でっか。むり。
見慣れない景色で、私の視界はトンボの目玉のようにグルグル回っていた。ローラーブレードを履いたままボールのうえで片足立ちしているみたいだった。

そこへスライディングしてきたのが先生だった。
シューッ! 

先生はいつもそうだった。とにかくすべての動きが早い。
歯磨きをするときは高速で手を動かし過ぎて、まっぴんくの健康な歯ぐきから大量出血していたし、洗顔する際の両手は早送りのようだった。勢いあまって小指を、鼻の穴に突っ込んでいたこともあったし、風呂ですっころんで頭部を角で打ち、翌朝玉ねぎのようなネットをかぶってきたこともあった。夕食では、行儀の悪い子どもを注意しながら(椅子をボートのように漕ぐ遊びが流行っていた)華麗に米粒を飛ばしていた。先生が、一日のなかで最も多くかけられていた言葉は「激しい」だった。「せんせ、はげし。せんせ、はげし」と赤ちゃんを卒業したばかりのぷにぷにの子どもにも言われていた。

私の居た部屋の小窓から顔を出して、先生は婦人用の下着を除けられず半泣きになっていた私なんか気にも留めずに唐突に歌い出した。
初対面とは思えないぐらい大きな声だった。おまけに病院のような廊下は大ホールのようによく響いた。身振り手振り指揮者のように歌う先生。私はおちゃらけた歌声を聞きながらほとんどパニックに陥っていた。
ここなに。やっぱむり!

よく聞いてみると先生が歌っていたのは校歌だった。それも私が転校する前の。
「なんで、知ってんの」
恐ろしいことに二番に突入していたのでぼそっと呟くと(歌詞は間違いだらけだった)、けろっとした顔で先生は言うのだった。
「先生も同じ小学校やってん」

初対面が強烈だったので、ほかの子どもや職員はみんな同じ顔に見えたけど、先生の存在は一瞬でまっしろな相関図にインプットされた(あの人、元気が大暴れしてる)。
数年後、先生の部屋へうつってからは更に(数名づつ部屋分けされていた)、私は底知れない活力に圧倒されるようになった。怒るときも、掃除機をかけるときもエアコンのスイッチを押すときも(これ以上ないピッ!)先生は等しく全力を注ぐのだった。

やわらかくて茶色い地毛。前髪のアメピン。
休日の姿はあまり見たことがなかったけど、出勤の日には決まって動きやすいジーパンを履いていて、宿題を見て時間割をチェック風呂に入れ歌い踊り笑い怒り、先生は休息を知らない馬車馬のようにそこらじゅうを駆けずり回っていた。

容姿を整えることよりも動きやすさを重視して、光の速さで子供に対応していく先生に、私はたちまち魅了された。包み込んでくれるような母性とか、広い心でたおやかに、なんてのとはずいぶんかけ離れていたが、反抗され、時には暴れられてもサーカス団のように立ち回る先生は格好良かった。マニュアルもくそもなかった。

私は、暇があれば先生の勤務表を確認するようになった。宿直当番までを指折り数える。あと四日。あと二日。明日宿直! いざその日を迎えると授業が終われば俊足で帰った。大好きなMステごっこもその日はお預け。タモリの声真似なんてしてる場合ではない。ミニモニ。も知らんしはよ帰らな先生を取られる!
「おかえりー」
そんな心配をよそに、いつだって先生はスリッパの音で帰りに気付いてくれた。もちろん私も先生の音を覚えていた。足の裏が着地する前に跳ねる。石切りみたいだった。
先生の横を死守することに私は大袈裟ではなく命がけで取り組むようになって、それは言い換えれば ‟良い子ちゃん” を徹底していたのだが、そんなことはお構いなしに、周りの白い目にも無視を決め込み続けた。

私には、昔から分からないことが多かった。
宇宙に始まりがあったならその前はなに。りんごをはじめにりんごと決めたんは誰。死んだらどうなるん。なんで死ぬのに生きなあかんの。全部最初から決まってるんじゃないの。とか言ってる今日も昨日も必然だったんじゃないの。なんで。なんで。なんで。

別に珍しいことではない。とつぜん世に放り出された子どもたちが疑問を抱えるのは健やかなことだ。
がしかし。私の問題点は泥のようなしつこさにあった。
私は先生と眠る日、布団のなかで先生の体に溶けてしまうぐらい密着しながら何度も何度も聞いた。
「だから、なんでりんごはりんごになったん!」
先生はそのたびに、「知らん」と言った。五秒後にはいびきをかいていた。先生はいびき防止用に牛のわっかのようなものを鼻につけていて、にもかかわらず発車する直前の列車のような音をたてていたのだった。私の疑問なんてどうでもいいのだ。先生にとっては見えている埃を吸い続けること、与えられた任務が大きかろうがそうでなかろうが立ち止まらないことがたいせつで、というか先生にはそれしかできないんだ。だからできることをやっているのだし、何度すっころんでも誰の目も気にせずに起き上がっている。
いつまでも考えている横でとっくに夢と向き合っている先生の寝顔から私は目が離せなかった。
「なあ。先生。なんでなん」
よせばいいのに懲りずに聞いたこともあったが、揺するとかろうじて薄目を開けた先生は
「知らん」
と言ってまた遠いところへ行ってしまった。ぽろん。と転がってきた牛のわっかを見つめながら、私はこの時間がいつまでも続けばいいと思っていた。
なんにも教えてくれない先生。
宇宙はとにかく出来てしまったのだし、りんごはりんごなのだし、だったらもうそういうことなんや! という先生の叫びが聞こえてくるようだった。
私のハテナマークはどんどん膨らんでいくばかりだったけど、現実から逃げてばかりのそばでいつだって受け入れながら走り回っている先生が支えだった。先生はなんでなんで星人のヒール兼ヒーローだった。

勇敢な先生は不審者にもひるまなかった。
ある夜、正門の前の車の下に、どうやら人が入っているという連絡を受けた先生は、躊躇することなくすっくと立ち上がって、まっすぐに寝ていた部屋を出て行った。
直前まで私は先生と先生の夫のメールを読んでゲラゲラ笑っていたのだった。
受信フォルダーがすべて「へいへい」の一言で埋まっていたのだ。
「洗剤買ってきて」「へいへい」「今日は遅い」「へいへい」
私は読みながら息継ぎを忘れて笑った。結婚と呼ばれる制度がこの世に存在するのは知っていたが、時を重ねれば究極「へいへい」の高みにまで登り詰めることができるのか。と、未知なる深海のような領域に興奮していたら不審者。
私は、いくら先生とはいえ少しくらいは「怖いなあ」とか、「さっさと警察来い」とか言って怯えるものだと思っていたのだが、やはり先生はどこまでも先生だった。

私が追いかけて行くと既にモップを担いでいたのだ。掃除用のモップの先から垂れていたのは外国のお人形のようなきいろい毛。とても戦闘力があるようには見えなかった。先生は柄の機能まで熟知しているのだろうか。私は良好だった視力を疑った。
出動していくときの先生はまさに狩人だった。するどい眼差しで、背筋を伸ばして、けれど床を摩るようにひそやかに。抜き足差し足の二倍速をはじめて目撃した瞬間だった。
私は階段の隅から先生の姿を覗いていた。
ハンパネー。
私の恐怖は羨望に打ち負かされていた。漫画であれば目にハートマークを描いていたところだ。
とはいえ、振り返ってみればほんとうは先生だって怖かったのかもしれない。朝まで守り通すのだという意志で全身を、むりやり奮い立たせていたのかもしれない。
今も脳裏に、獲物を捕らえるのだと心に決めた先生の睨みが焼き付いている。

どこまでも疑り深かった私はサンタクロースだってもちろん信じていなかった。
けれど毎年の行事として、宿直当番の職員は朝までに数十人分のプレゼントを(たいていは寄付されたノートなど)配らなければならないのだった。
私は深夜一時過ぎに先生に連行されることになった。大量のプレゼントの半分を仰せつかったのだ。
笑いを押し殺して駆け回ったお化け屋敷のような暗闇。たいていの子どもは寝落ちしてしまっていたけれど、自分の目で確かめようと起きている強者も数名は残っていた。
クレヨンで塗ったような真っ黒な部屋のなかにぽつんぽつんと山猫のような目が光っている。そういった目をとおくからかろうじて発見した際にはそそくさと退場し、迂回して順番を変え、ほとんど半泣きになりながら私はサンタクロースの任務を終えた。三名ほどの足を踏んでしまった。髪の毛かもしれない。あんなに平謝りしまくるサンタは後にも先にもいないと思う。それで、疲労困憊こんりんざい世界の子どものラブ&ピースなんて祈ってやるかよと思っていたら、とっくに事を終えた先生が私のマラソン完走後のような顔を見て喉の奥でヒーヒー泣きながら笑っているのだった。私もヒーヒー泣いて笑った。なんだかいろいろと様子のおかしいクリスマスだったけど、私には愛おしい宝物のような一夜になった。

干すのが面倒で、ぺらぺらの布団はせんべいと呼ばれていたけれど、それでも先生のとなりはあたたかかった。
不眠とは無縁の先生だったから、私の呼吸に合わせてトン、トンと叩いてくれる時間は短かったけど、私は大きく息を吸い込んで体を先生の匂いでいっぱいにした。香水のように甘い香りがしたわけではない。あれはなんとも名前のつけられない、先生が先生としてここに居る、ということの証明のような匂いだった。

途中、先生が産休に入った時期があった。
私は、先生に言われたことの意味を、先生からあらたな人間が誕生するとはどういうことなのか、考えに考えた。
私は先生の子どもに嫉妬した。
なんで。なんで私ではあかんの。
先生の体から「私が」、出てきたかった。
もしそうなっていたら今のような関係性はなかったこともすっとばして強く思った。

先生がいない間、私は毎日ラブレターのような日記を書いた。
先生元気?こちらは元気! 
実際に元気かそうでないかはどうでもよかった。ただひたすら元気ですと書き続けたかった。あしながおじさんのジュディを真似て書いたり、ハッピーを誇張すればするほど私は落ち着いていられた。

数年後、先生は無事に私のところへ戻ってきてくれた。正しくは「みんなのところ」だが私からすれば私のところだった。
退所する十八歳まで、私は先生と一緒に寝るのをやめなかった。
先生も、これほど体当たりでくっついてくる子どもはいなかったのか、私との時間をとても大切にしてくれていた。
夜になると、片付けなどすべての職務が終わるのを私は首を長くして待った。特別な子どもなんだと思うと嬉しかった。
布団に入るときは小さな花火が束になってゆっくりはじけるような感覚だった。
今、私は先生と一緒に居る。先生の布団のなかに居る。これからも居たい。一緒に居たい。

だけど、当然ながら先生にも生活があった。
期限がきて、出て行くことになった私は先生と離れて暮らすようになった。
ほんとうは、心のどこかで淡い期待をしていた。
もしかしたら、もしかしたら「一緒に暮らそう」と言ってくれるのではないか。
先生にとっては仕事だ、それは分かっている、でも、例外があるのではないか。用紙に書いて提出するとか、えらい人に頭を下げに行くとか、方法は分からないけど、まだ「続き」があるのではないか。

ひとり暮らしが始まっても、先生からあまり連絡はなかった。
数か月に一度、「元気にしてる?」というメールは来たけれど、それも徐々に期間が開くようになった。

悔しかった。裏切られたと思った。勝手に勘違いして、怒って、私ってほんまになんやねん。あほくさ。ゴミくず。悲劇のヒロイン。お姫様かよ。なにが特別やねんぼけ。先生にも家庭があんのじゃ。養子とか思ってたんかよ。なにが先生のなかから出てきたかったやねん。無理に決まってるやろ。どうやって入んねんっていうか明日の仕事のこと考えろ。毎晩毎晩どろんどろんになって病むわ~ってしつこいねん。電話かけられる身にもなれ。良い加減しゃんとしろ。けどさ。やっぱりさあ、もうやってられへん。死んでやりたい。死ぬの怖いけど死んでやりたい。やっぱりむり。む!り! なあ。先生。

でも、ちゃんと分かってた。先生だって私のように、ううんおそらく私以上に私を、先生なりのやり方で想ってくれていたこと。突き放す愛情があること。自立しないといけないこと。先生は、私の親ではないこと。

先生が鮮やかな色を残して移動していく場所を、私はただついて回るだけだったから。先生は、ひとりの人間で、家庭があって仕事があってそうやって生きてきたことを私は忘れていたのだと思う。というか考えたくなかったのだと思う。

数年が経っても、どうしても私は切り替えることができなかった。
それでも時間は止まってくれなくて、先生との時間は、あの布団のなかのクレパスをひっくり返したような世界はもう二度と戻ってこないんだ。と、ようやっと悟ったとき、私ははじめて近所迷惑なほど滝のように泣いた。先生たのしかった。先生のことたいせつやった。病院に付き添ってくれたとき、患者の私を無視して嗚咽していた先生。主治医になぐさめられていた先生。すみませんと謝っていた先生。あの日の帰り道、なんていうかもうごちゃごちゃ言わんと生きようって思ったよ。
阿保みたいに、家族になれるかもなんてしがみついてごめん。重たくてごめん。もっと先生の身になって、先生がどんな思いで頑なに未来を信じ切っている私と対峙していたか、夜中にこっそり置いてくれた大好きな菓子パンも、買ってくれたCDも、大量の手紙もぜんぶぜんぶその時々の気もちを、もう戻らないものとして必死に、どうしてかみしめなかったんだろう。先生には先生でない時間もあることをどうして分かろうとしなかったんだろう。

退所してから十年以上が経った。
母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」の僕と同じように、当時感じていた私のやり場のない思いも、あらたな出来事に塗り替えられていった。
本に書かれていたように、私も先生との時間を美化しすぎていたのかもしれない。すべてが素晴らしい日々であふれていたわけではないし、思い出したくないこともたくさんある。
でも、私はこうも思う。
先生だったからこそ、苦しかった。先生だったからこそ、忘れられなかった。今も、こびりついている。はがせないでいる。

先生、無理だと分かっているけれど。一日だけで良いから、あの頃に戻って先生の布団のなかで眠りたいなあ。今、戻るのではなくて、いつか先生と暮らせるのだと信じて疑わなかったあの頃のままで。
先生、どうして時間は巻き戻せないのかなあ。

私と先生との間に、今のところ「死」はない。あったのは「別れ」だけで、足を運べば今でも先生を感じられる。
けれども、一方で私は、あの頃の時間がそっくり同じようには、二度と、絶対に戻らないことも理解しているのだ。生きていく以上、前には進めるけれど、その逆はない。後はもがきながら進むだけ。

先生のいない道は孤独だけれど、乗り越えてきたからこそ味わえた今がある。
先生と一緒にいたあの頃には、ほんのひとかけらも見えなかった「今」。

今日は今日として終わっていく。明日には昨日になり、明後日には一昨日になり。
例外なく私も死に向かっていく。先生も、自転車を漕いでるあの人も、漏れなく全員が。
二度と戻らない時間のうえを、それでも私は、これからも歩いて行くだろう。

ここに思い出がある限りは大丈夫。そう自分に言い聞かせながら。
先生、だいすきだよ。ほんとうに、ありがとう。