yuriのblog

日々のあれこれや、小説・海外ドラマ・ゲームなど、好きなことについてたくさん書いていきます。

「考える日々全編」著者: 池田 晶子/わたくし、つまりNobody

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

「分からない、と思い続けていたことを肯定してもらえた」

2019.01.30


この本を手に取ったのは偶然で、私は私のことを “私” と呼んではいるけれど、でもその私ってなんなのだと思っていたところに、「私とは何か」と大きく書かれた本を見つけたのだった。

めくってみると、まさに分からないと思っていたところの「私とは何か」、について書かれていると分かったので、こんな本があるのかと驚き、分厚いからという理由で、同じ作者の「考える日々」から読んでみることにした。

 

偶然手に取ったので、作者のことは知らなかった。また、哲学を学んだこともないので、カント、ソクラテスだれ状態。

が、文章の力に引っ張られてなのか、一気に、夢中で読み終えてしまった。

書いてある事柄はなんていうか、限界まで削った鉛筆の先っちょという感じだった。もうピンピンであった。

当然ながら、作者と読者とは別物だから、そこまで言っちゃうのかあ、私は全くそうは思わないなあ(と書いてる今もではその私とは何なのだと始まりそうである)、などと思うこともあった(重複するが、当たり前なんだけど)。

けれども一方で、ここまで自分の “分からない” と思うことに対して、深く、根気よく向き合ってもらったことは無かったなあとも思う。

向き合ってもらったなんて、読んだのは本なのに言い方としてはおかしいのかもしれないけど、でも、本当にそう思ったのだ。

特別なことを言いたいわけではなく、私は毎日《死》のことばかり考えてきた。考えている。
死にたい、などの死ではない。ここに確かにある誰かでない “私” の意識が、絶対的に辿り着くらしい死について。

何時何分に死、ならばその一秒前、または一秒後との違いは何なのか。歩いている人々全員が漏れなく死に向かっていて、「過去」、なんてのは所詮人が作った言葉なのに、始まってから今まで今、今、今、と続けてきただけなのに同じく今ここでこうしている “これ” が無くなるってどういうことなの。「死者」と「何十年も会ってない人」とはどう違うの、 “いない” 人の本を読むって何、となりの部屋のポットは見ていないのにあると言えるの、というようなことが、本当にいつまでも分からなかった。今も分かっていない。

真っ白い紙は線を引かなければ、真っ白いままなのに、引いた後ではどうあがいても真っ白い紙には戻れないということ、消しゴムで消したところで所詮は、消しゴムで消した上での今なのだということ(進むことはできても戻ることはできないのらしい!)が、信じられなかった。

または、この中に入っているものがどうして自分なのか。どうして他の人間ではないのか。私が私と感じているこれを全員が持っている、とはどういうことなのか。

小さい頃、コンビニに行ったら店員がいる、ということに驚愕していた。行く、行かない、の二択から行くことを選んだ。どの時間帯でも良かったのに、今、行って、目の前にあの人がいる。あの人にも選択肢があったのに、他のバイト先に受かっていたらここにはいなかったのに、高熱が出ていたら、とまでは言わなくとも今日は面倒だから、と欠勤していたら目の前にはいなかったのに!

でも、いる。現にいて「そうだったかもしれない」今はもう今が今である以上、ないのだから、と考えてる今も今ではなくなり、と考えてる今が今ではなくなって、ワアアアアアア逃げ帰って施設の先生に「もう、全部、決まってるやんか!」と泣きついたことを思い出した。先生は白目をむいていた。

なんて、書き出したらキリが無いのだが、だから私はこの本が心強かった。 “分からない” が増えていくことは、ちっともおかしなことではないのだな。そこで止まらず、さらに考えることの楽しさがあるのだな。

個人的に一番印象的だったのが、《死》が無であるならば、死、そのものも存在しないではないか、という問い。私はいよいよ分からなくなって読んでいた数日間毎夜うなされてしまった。と書いた途端にまた本から問いが降ってくる、ああ私は誰の言葉を読んだのだろう、と書いてる私とは何なのだろう……ヤバイ。今夜もまたうなされるではないか。

この本のおかげで “分からない” がまた増えた。

物凄く、面白かった。