yuriのblog

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「そばにいてくれる。この先もずっと」--「サリンジャーと私」コラム募集投稿作品 引用作品「フラニーとズーイ」サリンジャー

 

 

*以下の文章は、以前読書サイトにて投稿していたものになります。そのサイトが閉鎖される為、こちらに文章をうつしていきます。

 

 

 

「そばにいてくれる。この先もずっと。」

2019.02.25

 

 

お題 「サリンジャーと私」コラム募集にて読書サイトシミルボンで賞を頂いた文章です。

 


 
この文章を書き始めたのは夜中の三時過ぎ。
フラニーとズーイ」を数日かけて読み返すはずが、一度も中断できなかったのだ。もうやめてよ、と叫ぶフラニーにわたしは言いたかった。こちらこそもうやめてよ。
痛々しくて、見覚えがあって切実で。一度目と同じようにわたしは夢中で読んだ。そういえばと振り返ると「ライ麦畑でつかまえて」をはじめて読んだ際も冷静ではいられなかったのだった。

とはいえ、「ライ麦畑でつかまえて」を手に取ったのは二年まえのこと。
覚えているのは、青い表紙に惹かれて本棚から抜き取った瞬間。そのときはサリンジャーという作家の存在すら知らなかったので、香ばしいライ麦パンを思い浮かべたぐらいなのだった。
けれど、予備知識なく読んだおかげでわたしは先入観なく物語に入って行くことができた。バケツいっぱいの歯がゆいという気もちを、頭上からぶっかけられているようで、しかも後に知ったところによると “青春小説” とか呼ばれてるらしいではないの。
もっと若いころに読んでいたら良かった、とか通り過ぎたなあ既にこの景色はとか一ミリも思わなかったわたしっていったい……などとわりと大真面目に自分を案じてしまったのだが、けれど一方で自分にとっては “今” だったのだなあとも思った。

むかしから読書は好きだったが、心ゆくまで読めるようになったのは大人になってから。もっというとここ数年のことになる。
だから、いろいろが落ち着いて思いきり読めるようになったとき、わたしはほんとうに驚いた。
なんやこの世界。おもろすぎる。特に海外の小説たち! 頭のなかでわたしは青春の開幕宣言をした。

集団生活をおくり、家でも学校でも人にまみれていたわたしは、正直言ってむかしは場に溶け込むことしか考えていないような人間だった。見られたい自分を演じて、ふつうとされていることをそのまま受け入れ、はみ出さないように、はみ出さないように。

だから、思い切って読み始めた海外文学や、同じ時期に出会ったサリンジャーの物語は、ほんとうにおもしろかった。そのように意識して読んだわけではないが、自分でもう一度考える楽しさを知った。

特に「フラニーとズーイ」。
当時の感想文を読み返してみるとこう書いてあった。「フラニーが自分の名前で再生されて夜中に走り出したくなった」。通報一秒前。ちなみに「ライ麦畑でつかまえて」のほうは「青春時代どころか今読んでもグサグサ容赦なく刺さってきやがります」。沸騰の極み。というわけで、サリンジャーの作品はわたしにとってある意味では、酔っ払いのようになるゆえサワルナキケンでもあるのだった。

だから再びの「フラニーとズーイ」はドキドキした。また顔面からのめりこんで、なんなら三年峠ばりに前転しだすんではないの。ああ~わたしにもこういう時期があったなあホロリなんてまだ思えそうにない。
けれども、読み終えて思ったのは、ノンストップで読み続けてしまったとはいえほんのちょっとだけ、動いている気がしたということ。自分が。時間が。
というのも、一度目はフラニーに感情移入しすぎてほとんどフラニーのしんどさしか頭に入っていなかったからだ。でも、実際にはふたりの緊迫シーンは後半に詰まっていて、これはズーイバディーなんならグラス家全体の物語でもあるのだなあ。

それから、もうひとつの変化は笑えたこと。
一度目は、笑う要素なんて皆無だと思っていたのだが、レーンの虚空をみつめるカッコつけ具合も、なにを言われても風呂から出て行かない母ちゃんも出て行けよと言いながら会話し続けるズーイにも思わず笑ってしまって。
すべてが馬鹿馬鹿しく思えて、そういう自分がいちばん馬鹿馬鹿しいと分かっているフラニーには、相変わらず「誰か」と「世間」を混合したり、簡単に悲劇のヒロインに変貌するわたしには笑えなかったけど、たった二年とはいえ、変化もあったのだなあと思って、時間の経過を感じられたのがおもしろかった。

ふだん、作品に嵌ると続けて作家読みをしてしまうのだけど、サリンジャーに関しては関連本などを手に取りながらもなかなか、その他の作品を読めないでいた。自分には劇薬で(つまり最高)やっぱりサワルナキケンでもあったからだ。

というわけで、まだ読めていない作品も多いのだが、漬物ではないが今だと思う瞬間まで寝かせておいて、もしかしてわたし、同じところを足踏みし続けているだけではないの、と脱力する日々のなかでそれでも、出会ったり別れたり諦めたり向き合ったりした期間の、些細な、けれど確かにある変化を感じられたらなあと思う。
サリンジャーの作品は、わたしにとって過去を受け入れるための支えでもあるのだった。